“彼方からの囁き。”

作:眼帯兎






「私は、好きで化物になったわけじゃない!」  不意に、泣き叫ぶような言葉が背後から届いて、妹紅は否応無く歩みを止めた。  幸い、声の主より先に立っていた妹紅は、振り返るまでの猶予があった。  故に、妹紅はすぐに振り返ることは無く、胸の内に疑問を抱える。  銀糸のような白い髪に冷たい風を感じながら、妹紅は始まって間もない今日を思い出していた。  ――それは、目眩がしそうなほどに退屈な朝だった。  朝とはいっても、自堕落な妹紅の目覚めは遅い。  爽やかな小鳥の囀りとは縁遠く、あるのは変わりない日の光と見飽きた雲の流れといったところだろう。  そんな詰らない日々とはいっても、眠り続けている訳にもいかず、差し込む日差しに諦めの悪い目蓋を擦りながら、妹紅はようやく、遅めの朝を受け入れた。  一度目覚めてしまうと、彼女は朝の支度が早い。  布団から飛び起きた慣性に身を委ねて、戸を開くと同時に左手に柄杓を掴ませる。  同時に冷めた外気に触れて、ぎこちない身体も少しは目を覚まし始めた。  そして、無慈悲に身体を照らす日から視線を逸らすと、そこには瓶に汲み置きした清水が波打っている。  緩慢な動作で左手ごと柄杓を突き入れて、一つ目を口に、二つ目を顔に、三つ目を頭から被れば自然に顔も引き締まった。  長い髪に土埃がつくのが難点なのだが、これが昔から続けられた妹紅の朝の目覚めである。 「今日は、慧音に焼畑の手伝いを……頼まれていたかな」  覚醒した意識とは裏腹に、出てきた声は未だに間延びしたものだった。  濡れた髪へ申し訳程度に手を入れて、大きな欠伸を噛み殺す。  しかし、妹紅は己の言葉に、怠惰な身体へと鞭を打つことになる。 「約束は、早朝だ……った!?」  気付いて語尾を叫びに変えても、時は既に遅い。  無情なもので、太陽は妹紅を置き去りにして早くも昼を迎えようとしていた。  太陽と共に目覚める慧音は、当然のように昼を迎えているだろう。  乱れた衣服もそのままに、昼の斜光の中、妹紅は瞬く間に表へと走り出した。  恐らくは、半刻は続く小言を思うと、自然と足は速くなっていく。  それはきっと、いつも通りの日常の始まりであった筈なのだ。  結果として、妹紅を待っていたのは有無を言わさぬ頭突きと、一刻を越える小言の嵐だった。  しかし、慧音も長い付き合いで慣れたのだろうか、一通りの注意を促がせば怒りも消えるらしく、彼女は殆んど癖のように、あまり感情の篭っていない小言を続けるだけだった。  目を覚ますような涼しげな風が吹けば、後はいつもと変わらない、皮肉を交えた談笑が続く。  焼畑の仕事は炎を操る妹紅が苦も無く終えて、里中の畑を本日中に回れる計算だった。  そう、そんな何の問題も無い一日だったのだ。  しかし、振向いた先にある慧音の顔は、嫌でも日常ではなかったことを妹紅に気付かせる。  今の彼女には、背筋良くモノを言う姿勢は無く、項垂れるようにして肩を震わせていた。  普段の優しく受け入れるような瞳も、今は冷たい敵意と涙で濡れている。 「……馬鹿」  不変的な談笑に紛れた叫びは、両者に沈黙を与える。  その沈黙を破ったのは、まるで幼子のように身を震わせる慧音だった。  普段の凛とした言葉と違う、震えるように零れたその言葉は、痛いほどに妹紅へと届く。  結局、妹紅は終始かける言葉も見つけることが出来ず、無言のままに慧音を見つめていた。  彼女の涙が零れ落ち、自分に背を向けた時にさえ、妹紅は呆然と立っていることしか出来ない。  何故だ。そんな簡単な問い掛けが思いついた頃、慧音の姿は既に無く、一人残された黄昏時の帰路に、小さく歯噛みする音が零れ落ちた。  ■  夏も近く、ぬるま湯のような微熱が夜を包んでいる。  酷く欠けた月は細く、一人で見上げるには些か侘しいものだった。  冬の澄んだ夜とは違って、今宵の空気は生命が溢れかえり、飽和的に感じられる。  夏の虫も、気の早いものは泣き声をあげ始めて、静寂とは程遠い夜が出来あがった。  しかし、静寂を求める者がいるように、例外的な場所もあるものである。  そんな、夏の音も遠く、月光も霞むような暗がりが、何かに守られるように存在していた。  今、妹紅は一人、そんな場所に身を置いている。  岩肌に潜み、その上に木々の影が掛かったそこは人気も疎らで、誰の目にも映ることはないように思えた。  人気を苦手とし、幾度も此処へ足を運んでいた妹紅だからこそ辿り着けた、秘密の場所だった。  そんな、無音に近い静寂の中、不意に、低く唸るような音が響く。  それは、妹紅が背を預ける岩肌に空いた、一つの空洞から聞こえる風鳴りの音である。  月の目も届かないその穴は暗く、向こう側から吹き抜けてくる風が唸りを上げていた。  まるで何処までも続いていそうなそれは、知らない世界へと続いているような幻想を抱かせた。  勿論、そんなことは滅多にあるものではない。  Uの字に歪んだ穴は先が見えぬだけで、この穴は幻想郷にしか繋がっていないだろう。  それでも妹紅は、何処にでもあるような空洞を気に入っていた。  人が一人、屈んでやっと通り抜けられるような穴だが、背にしていると吹き込む風が心地良く感じられるし、風鳴りの音が響くと、妹紅は不思議と落ち着いた気分になれた。 ――でしょう。  不意に、誰かの話し声が聞こえたような気がした。  妹紅は薄く目を開いて辺りを窺うが、人間は勿論、妖怪の類さえ見つけることは出来なかった。 ――なのよ。  二つ目の、囁くような呟きが妹紅の耳へと届く。  流石に妹紅も気を緩めている場合ではないと感じて、腰を上げて辺りを窺った。  彼女の不死の身体は如何なる危機も感じることはなかったが、今は邪魔をされたくない気分だったのである。 ――の馬鹿。 「何だと!」  思わず声を荒げて、妹紅は声の聞こえた場所へと目を向けた。  そこには相変わらず、奈落にでも続いていそうな穴が空いている。  訝しみながら耳を澄ませば、確かに囁くような声が漏れ聞こえてきた。  岩山に穿たれた洞穴は深く、風が吹き抜けて来るのだから、何処かに続いている筈である。  しかし、それは恐らく巨大な岩山の向こう側であり、勿論此処まで届く筈が無いのだが、山彦の類でも住み着いているのか、囁きはまるで隣にいるかのようにはっきりと妹紅へと届いている。 「誰か、居るの?」  妹紅の声も向こう側へと届いたのか、どこか慌てたような声が穴の向こうから漏れ聞こえる。  事の仕掛けが分かれば、どうということはない。  妹紅は溜息を一つ溢して瞳を閉じ、再びお気に入りの場所に座り込んだ。  穴の向こうからは絶えず慌てふためく誰かが囁いていたが、妹紅は暫く答える気は無かった。  今はただ、反響しすぎて男とも女とも思えぬ不思議な声を聞きながら、穏やかに笑っていたかったのである。 「まさかこの穴から声がしていたなんて……」  月もやや傾いた頃、向こう側に居た誰かはようやくこの穴に気付いたらしく、心底情けないといった風に話し始めた。  妹紅はというと、ほくそ笑みながらも、半刻ほどを誰かとの世間話に費やしている。  始めは嘲笑うように、途中からは興味を持ち始めて、今は共感すら覚え初めていた。 「……それでその人ときたら、今まで外にも出してもくれなかったのに、急に世間知らずなんて言い出すのです。外界を知らない私に、どうやって世間を知れと言うのでしょうか」  先から続く語りは変わらず、向こう側の誰かは溜め込んだ鬱憤を晴らすかのように愚痴を溢し続けていた。  聞けば、その誰かは妹紅と同じく、親しい者と仲違いをしたようだった。  反響する声に感情の色は感じられないが、少なからず気落ちしたような心が背中越しに伝わってくる。 「それで喧嘩して、顔を見るのも辛くなって、逃げてきた?」 「何故、お分かりに?」 「……経験があるからね」  そう、それは遠い昔、千年から先は数えていない掠れた記憶。  いくつだったか、自分が閉じ込められていることに気付き始めた頃の話だ。  それが自分の為だと、守る為なのだと気付くことも、幼い心には難しかった。  故に、妹紅は背中合わせの誰かと同じように、逃げてしまったのだ。  親の涙を見ても気付けなかったそれに、幼き日の彼女は数年の月日を費やした。  同じ事を気付けずにいる誰かが傍に居るのは、正直、居心地が悪い。   「貴方は……?」 「うん?」 「貴方も、何かあって此処に来たのでは無いのですか?」  次はそちらの番、と言うことなのだろう。  普段、己の事を話すことがない妹紅ではあったが、何故だろうか、今はそう悪くない気分だった。  昔の自分に似ていたからなのか、背を合わせるほど近く届く声に、妹紅は何かを隠す気にはならなかったのである。  ここまで愚痴を聞かされていたのだ、こちらとしても何か溢さなければ、不公平というものだろう。  そんなことを言い訳のように思いながら、妹紅は小さく、穴へと囁き溢し始めた。 「喧嘩したのさ、私も」 「……何故?」 「分からない。いつも通りだった筈なのに、気付くと怒らせていたんだ」  呟くように溢した言葉は、同時に慧音の泣く姿を脳裏に思い起こさせた。  原因の分からないそれに、歯噛みすることしか出来ず、その度に妹紅は不安を感じていた。 「……なぁ「あの……!」」  二つの声が、暗闇の中で混ざり合う。  声は互いに打ち消しあって、タイミングを逃した言葉は再び囁かれることは無く、二人に気まずさだけを残していた。  そんな落ち着かない雰囲気の中、妹紅は無言のまま、自分の問いを、答えを思い浮かべていた。  恐らく、幼き日の妹紅にその答えを伝えたとしても、納得など出来なかっただろう。  その事実に気付いてしまうと、もはや妹紅に言えることは何も無く、気まずい沈黙は重苦しく続いた。 「「……あ」」  沈黙を破ったのは、思わず零れた呟きだった。  力無く見上げた空は、朝の訪れと共に淡い赤色に染められていく。  次第にそこには橙色が覗き始め、鳥が朝を告げるように鳴き声を上げた。  あちらにも日は昇っているのか、そんな当たり前のことを、妹紅は考えていた。  別れの気配というものは自然と伝わるもので、妹紅も、向こうに座る誰かも感じ取っていたのだろう。 「此処はお気に入りだから、また会うかもしれないわね」 「月が綺麗なら、私もまた参ります」  自然と、別れの言葉は出てきた。  再会を願うような言葉が零れたなら、今更名乗るのも無粋だろう。 「それじゃあ」 「……はい」  最後の言葉が囁かれると同時に、ぬるい風が穴へと吹き込み、鈍い唸りをあげる。  それを合図に、妹紅は痺れた足を気にしながら立ち上がると、白んだ空の下を歩み始めた。  もしも、今宵の月が輝くようならば、妹紅は恐らく穴へと囁きを溢しに行くのだろう。  朝焼けの光が白く輝くところを見ると、今日は最高の天気になる筈である。  ■  日も昇った時刻に寝付いたせいか、妹紅が目覚めたのは昼も過ぎた頃だった。  窓から漏れてくる日差しは、既に蜜柑のような橙色を混ぜており。  調子の狂った身体はそんな光を嫌うようで、妹紅は思わず掌で目を覆った。  夢の欠片は淡く、妹紅の脳裏に誰かの姿を残している。  長く夢の中に居たせいか、眠気だけは綺麗に消えて、目覚めたばかりの身体は淀みなく動いてくれた。  向かうは里へと続く道、泣かしてしまった友人へかける言葉はまだ見つからない。  赤みがかかった空は柔らかく、一日を終えようとする人々を優しく受け入れてくれるようで、一日を眠りで費やした彼女には、些か滑稽に見えた。  傾きかけた太陽は万物の影を長く伸ばし、別れを惜しむようにゆっくりと沈んでいく。  戸を開けたままの姿で、妹紅は暫しの間、夕日を眺めていた。 「――慧音!」  そして、夕日に伸ばされた人影を視界の端に見つけた時、妹紅は既に声を上げていた。  里には珍しい、綺麗な銀髪を揺らして振り返る姿は、疑いようも無く慧音のそれである。  一拍置いて、妹紅は何かを言おうとしていた。  しかし、かける言葉も浮かんでもいないのに、言葉が出る筈がなく、妹紅は無意味に手を突き出したまま、口を噤むことしか出来なかった。  そんな妹紅を置いて、夕日を背にした慧音は何も言うことも無く、背を向けた。  光のせいで表情は読めず、怒ったままなのかも、泣いていたのかも分かりはしない。  ただ漠然と、走り去る慧音の影を見つめて、妹紅は不意に左手に鈍い音を聞いた。  目を向けてみれば、そこには千切れかけた木と折れた腕がある。  何も思うことはない八つ当たりだが、苛立ちがそれで解消されるのなら、すぐに治る腕など安いものだった。 「話くらい……させろよ」  しかし、それでも消えない苛立ちは、小さくなった黒い影を悲しげに見つめていた。  誰も居なくなった夕焼けの道で、妹紅は一人影法師を伸ばし、道を引き返す。  向かうは一人になれる場所、慧音とは逆の道。  お気に入りの、一人だが独りではなくなる約束の場所だった。  月はまだ、赤く染まり往く空には見つけられない。   ――居ま……か……?  不意に、白濁とした意識に聞きなれてしまった声が届いた。  いつの間にか寝ていたのか、夢の世界から突然引き起こされて、妹紅は戸惑いながらも空を見上げる。  目の前に広がる空には、既に歪な月が光を滲ませて、紺色の夜を照らしていた。  今、妹紅が座り込んでいるのは夕焼けの輝く夢の世界ではない。  目を覚ますように大きく頭を振ると、見ていた夢は数日前のもので、今日は朝から呆然と座り込んでいたことを思い出した。 「そこに、居ますか?」  月が顔を出す夜、妹紅は度々あの穴へと訪れていた。  そして、今日も雲一つない空を見上げながら、背を合わせに穴へと向かう。  四度にもなるだろうか、流石にそれだけ逢瀬を重ねれば、外で夜を迎えるのも慣れたもので、妹紅は心地良い眠気さえ感じていた。 「……居るよ」  反響しすぎた声での返答は、感情の色を感じることも出来ないが、僅かに喜色を交えているように思えた。  それは妹紅の声も同じで、意識せず出した声に、妹紅自身も驚く程である。  片手で足りる程度繰り返した逢瀬、名も性も知らぬというのに、妹紅は月の出る夜は必ず、この場所で囁きを溢していた。 「今日は、何をしていらしたのですか?」 「……いや、何も」 「何も?」 「朝からずっと、此処で居眠りをしていたんだ」  恥ずかしげも無く答えて、妹紅は座りなおして瞳を閉じる。  穴の向こうからは驚くような、呆れるような言葉が聞こえてきた。 「それなら、呼びかけてみればよかったですね」 「うん?」 「私も居たのです、昼頃からですけど」  何が可笑しいのか、穴からはクスクスと、忍び笑いのような声が漏れ聞こえてくる。  妹紅は先ほど聞こえた呆れの言葉を真似して、わざとらしく大きな溜息を溢してみせた。 「何をしていたんだ?」 「……考え事ですよ」  考え事という言葉で、妹紅はようやく、居眠りの理由を思い出した。  そう、妹紅も考えていたのだ。理由も分からぬまま嫌われてしまったあの日のことを。  しかし、あんな夢を見たくらいなのだから、恐らく良い解決方法は見つからなかったのだろう。  今更言い出すのも馬鹿らしく思い、妹紅は黙って、彼方からの声に耳を澄ましていた。 「あの、前に喧嘩したと言っていた人は……どうなりましたか?」 「――ふえ?」  忘れようとした矢先にそんなことを呟かれて、妹紅は間の抜けた声をあげた。  同時に、何の進展も無い慧音との仲が思い出されて、無意識の溜息が妹紅の喉元から上がってくる。 「未だに理由は分からない。それどころか口も聞いてもらえない」 「……そうですか」  そんな呟きがぬるい風に巻き込まれて消えた後、互いに何を口にすることも無く、時が過ぎていった。  妹紅はもう一度、その原因を思い浮かべてみるが、答えは出ない。  恐らくは、向こう側の誰かも同じようなことを考えているのではないかと、妹紅は感じていた。  背中合わせに悩みながら、自分の答えは迷走するというのに、前に聞いた相手の悩みだけは答えが出ている。  彼方からの声の主の気付くべき事は、苦言に潜む優しさだった。  しかし、それは自分で気付かなければ意味が無い。  結果、無意味な答えだけが残って、自分の問題だけが目の前に立ちふさがるのだった。 「……あの」  いつまでも続くかと思われた沈黙を、気まずそうな言葉が掻き消していく。  妹紅は突然の声に驚きを見せながらも、声に意識を傾けていた。 「貴方は、喧嘩の原因が分からないと言っていましたよね」 「……あぁ、でも」 「それは!」  妹紅の遮る言葉を無視して、いつもより大きな声が響いた。  山彦のように反響して繰り返されるそれを聞きながら、妹紅は目を丸くして次の言葉を待つ。 「それは……きっと気付けないほど小さな事が原因なのです。でも、よく思い出して、些細なことでも気付いてあげないといけない、気を付けてあげないといけない、大切なら……」 「……後は、自分で気付けって事だな」 「ごめんなさい。でも、そうじゃないと意味がないと思うのです」 「いや、嬉しいよ。私もそう思っていたから」  素直な言葉を、背中合わせの誰かへと呟いて、妹紅は自然と浮べられた自分の笑顔に気が付いた。  妹紅の唇は自然と笑みに歪んで、胸の中は何か暖かいもので満ちている。  久しぶりに感じたその感情に酔わされたように、妹紅は返礼と僅かな“ヒント”を呟いた。 「あんたも、喧嘩してたんだよな」 「はい。考え事は、それです」 「そっちもさ、気付いてやらないといけないと思うんだ。その苦言を残した人の心を、そいつがそのとき、何を思っていたかを、大切ならさ」 「……後は自分で気付け、ですよね」 「そうだな、そうじゃなきゃ意味がない」  互いに同じようなことを言って。  互いに出ている答えを、意味が無いと圧し留めて。  冗談のように、妹紅と彼方からの声は笑い合っていた。 「……用事が出来ましたから、今日は早く寝ます。貴方も、そうでしょう?」 「――あぁ、そうだな」  答えながら、妹紅は別れの言葉を呟くこと無く立ち上がった。  まるで、再会の約束など必要ないとでもいうように、向こう側でも走り出すような気配を感じる。  出遅れたことに歯噛みしながら、妹紅は欠けた月の照らす帰路を走り始めた。  考えなければいけないことも、言わなければいけないことも多すぎるのだから。  今宵はひとまず、長い眠りにつかなければならないだろう。  ■  草葉と水の匂いを含む雨の気配が、幻想郷を包んでいた。  午前中は雲一つ見えなかった空も、今は暗い雲に覆われてしまっている。  薄暗い森の道を歩きながら、妹紅は一人、里への道を歩いていた。 ――きっと気付けないほど小さな事が原因なのです。 「小さいこと、ね」  道すがらに思い浮かべるのは仲違いをした日の事ばかりで、妹紅はそこに何かを探していた。  慧音の嫌がることから始まり、いくつもの想像が妹紅の頭の中を駆け巡っている。  しかし、未だ明確な理由は見当たらず、雲行きは今の空模様と同じく、薄暗くて怪しいものだった。  何日も前の、普段から続けられた他愛もない会話は、思い出すことさえ苦労するものである。 「これじゃあ、慧音に会ってもこの前と同じになるよな……」  不意に、遠く雷鳴の気配が聞こえて、妹紅は空を仰いだ。  黒雲は今にも溜め込んだ雨を溢しそうな危うさを見せて、弾けた。 「……明日にすれば良かったかな」  最初の二粒の雨を認めてからは、川を空から落としたような豪雨が降り注いだ。  己の呟きさえ掻き消されそうな轟音の中、呆然と雨を浴び続けながら、妹紅は視界の端に里の灯を見つけた。  そこは里から離れて住む変わり者が住む家で、主人の顔は見たこともない。  しかし、この雨では贅沢な事は言えず、妹紅は考える間も無く、遠く見える灯へと走り出していた。 「夕立なら、半刻も雨宿りさせてもらえば大丈夫だろう」  足音さえ消される雨音の中、世界はある意味無音といえた。  そんな豪雨なのだ、妖怪ならまだしも、いくら顔を知らぬとはいえ人間を無碍に扱うことは無いだろう。  楽観的な思想を持ちながら灯へと走り寄り、雨の向こうに見えた人影を前に、妹紅は思わず足を止めた。 「……慧音?」  雨音に掻き消されて聞こえなかったのか、銀髪を揺らす人影が妹紅に気付くことはなかった。  慧音の前には見えていた灯があり、よく見るとそこにはもう一つの人影が立っている。  慧音より頭一つ高いその人影は恐らく男性だろう、何かを話しているようだが、雨の中では何も聞き取れなかった。  ただ一つ、最後の叫びを除いては。 「――化物のくせに!」  激しい雨音さえ飲み込む、憎しみさえ感じられる叫びは遠く、はっきりと妹紅へと届いた。  事情は知れないが、それは仕方がないことだったのかもしれない。  人間にも沢山の種類がある、半獣を認められないものだって、居ないわけではないのだ。  それでも、雨に濡れた慧音は泣いているように見えて、決して認めることなど出来ない。  普段の妹紅ならば、気にせず怒りに任せて走っていった筈だった。  しかし、妹紅は身体を震わせながら、泥の道に膝を付くことしか出来ない。 ――おはようございます、里の守人様?  突然と込み上げてきた吐き気と共に、あの日の記憶が妹紅の脳裏に浮んできたのだ。  冷たい雨に熱を奪われた身体とは裏腹に、頭の中だけはまるで熱病に侵されたかのように白熱していく。 ――よくそんなに熱心になれるよね、慧音。  視界の端では男性が勢い良く扉を閉めて、項垂れる慧音の姿が見えた。 ――皮肉だね、元人間なんかより、よっぽど人気者じゃないか。  他愛も無い談笑の中に潜んだ、残酷な笑い話が脳裏で囁かれている。  その度に妹紅は激しい頭痛を覚えていた。 ――私も半獣だったら、妖怪だったら良かったのかもね。  無音の世界の中、慧音は何かを呟くように唇を動かして、走り出す。  泥を跳ねて、躓きそうになりながらも、決して足を止めようとしていない。  逃げ出すようなそれに近視感を覚えながらも、妹紅は動くことが出来なかった。 ――私は、好きで化物になったわけじゃない! 「……全然、些細なことじゃないよ」  激しい雨の中、次々と甦ってくる会話の羅列を聞きながら、妹紅は痛む頭を抱える。  その一言ごとに慧音の気持ちを考えると、不死の心臓が何度も引き裂かれたような痛みを感じた。 「何でこんな事を言えるほど、人付き合いが出来無くなってるんだよ!」  熱い涙が瞳から零れ、雨と混ざって地へと落ちていく。  涙が枯れるまで泣いたとしても、慧音の悲しみには遠く及ばないような気がして、妹紅は一人、泣き続けていた。 「笑っているからって、傷ついていない訳が無いのに……!」  叫びは激しい雨の中に消えて、雨と一緒に泥へと埋もれていく。  妹紅は荒い息を整える暇も待たずに、泥を踏みしめて走り出した。  言わなくてはならないことが、沢山ある。 「千年以上も生きていながら、私は……!」  足音が掻き消されるほどの雨の音に、妹紅は荒い息を吐き出して走り続けた。  慧音が背を丸めて走っていった道を、ひたすらに進んでいく。  言わなくてはならないことは、もう理解している。 「慧音は、慧音だから!」  豪雨の生み出す轟音を掻き消して、叫びは幻想郷に響いた。  妹紅の眼前には、驚き戸惑う慧音の姿がある。 「……妹紅?」 「ごめん、慧音……私!」 「――馬鹿だな」  続く言葉を掻き消して、慧音は暗い雨には似合わない笑顔を浮かべていた。 「ありがとう、妹紅」  深く深く、慧音の笑みが咲いていく。  雨に濡れて涙の色は見えず、ただ綺麗な笑顔だけがそこにはあった。  故に、慧音は恐らく泣いてはいなかった。  ただ、今日の雨は少し、塩気が強い。  ■  半身を綺麗に半分置いてきた月が、黒の滲んだ夜空に笑みのような形を残している。  雨上がりの風は草葉の匂いを含み、生暖かいそれは何処か夏の訪れを感じさせた。  先の雨はその激しさをあっさりと消して、今は黒雲の姿さえ見えない。  夕立の後とあっては当然、地面も乾ききってはいなかったが、妹紅は気に留める様子も無く、いつもの場所へと腰を下ろした。 「今晩は」 「……あぁ」  互いに訪れる頃合をいつの間にか覚えてしまって、彼方に居る誰かは“居ますか”と尋ねなくなった。 「月が、綺麗です」 「こっちもだ」  何の思惑も無い、無作為で気楽な言葉を、二人は暫しの間繰り返した。  名も知らず、性も分からず、姿も見えない。  それでも、こんなにも声が近いから、遠くて近い背中合わせの二人の距離は、限りなく零に近い。  出会って日も浅い二人ではあったが、誰かの言葉は底抜けの安らぎを妹紅に与えてくれた。 「……どうでしたか?」 「おかげさまで」 「私も、おかげさまです」  言って、二人は笑い声を隠さず、互いに何かを気付けたことを喜んでいた。  妹紅は言葉も思いやらなければいけないことを、そして恐らく、誰かは苦言に潜む優しさと大切と思う心を。  それは、背中を押しただけではあったが、誰かのおかげであり、妹紅のおかげだった。  そんな照れくさい助け合いが、今は途方も無く心地良い。 「あ、あの!」 「うん?」  そんな、心地良い静寂の中、上ずったような不自然に大きな声が響いた。 「こんなことをお尋ねるのは、失礼かもしれませんが……その」 「……名前?」 「い、いえ、それより」  それより、という言葉に、何か引っかかることを感じながら、妹紅は瞳を閉じて続く言葉を待った。  尋ねられることなど数も限られているし、答えられないものも、何もないのだから。 「その、御友人というのは恋仲の……方なのでしょうか」 「――は?」  考えもしなかった問いに、妹紅は笑いよりも先に驚きを覚えてしまった。  雨の中、仲直りしたばかりの友人を思い浮かべてみても、妹紅は親愛のようなものしか感じていない。  それに今は、それ以上に―― 「ち、違う! そっちこそ、どうなんだ」 「――はい?」 「その……伴侶とかなのか?」  見られている訳でもないのに、片手で顔を覆いながら、妹紅は言う。  そして、一瞬の静寂の後、穴からは笑い声が絶えず零れてきた。 「彼女は……違うのです」 「そ、そうか」 「それに、私は……」  続く言葉は無く、不思議な沈黙が二人を包んでいた。  心地良い静寂とも、気まずい沈黙とも違う、恥ずかしいくせに傍に居たいというような、本当に不思議な静けさ。 「そっち、行ってもいいかな」  そんな、ぬるま湯のような静けさに、言葉は自然と妹紅の口から零れ落ちた。  返答を待つことなく、身体は奈落にでも続いていそうな暗闇へと滑り落ちていく。 「い、いけません!」 「何故!」  問いながらも、妹紅は意外に広い穴の中を進むのを止めない。  風通りが強いせいか蜘蛛の巣も少なく、進行は滞りなく続けられた。 「だって……色々な事に気付いてしまう」 「私は、とっくに気付いてるよ」 「――え?」 「好きなんだ」  告白と同時に、誰かの声が掻き消された。  妹紅は、彼方に居る誰かのことを好いている。  故に、その足が止まることは無かった。 「もしも、貴方が王子様のように迎えに来てくれるなんて幻想を、見られなくなってしまう……」 「必要無い、今迎えに来た」 「だって、私は女です。そして、貴方もきっと……」 「知らない、見てきたどんな男より魅力的だ」 「そ、それに、私と貴方の世界が違うものだったら、この穴が境界を繋いでいるだけだったら?」 「無理にでも辿り着いてみせる。元の世界を捨てるのも構わない」 「……私が、普通の人間と同じ寿命を生きていなくても?」 「共に居られるなら、どんなに短くたっていいんだ」 「――何で」 「一緒に居たいから」  泥だらけの服も気にせず、妹紅は進み続ける。  聞こえてくる問いに、妹紅は咳払いを一つ残して、言い切った。 「……私だって、好きです、一緒に居たい!」  何かが滑り落ちてくる音と、転がり落ちてくる小石。  同時に、妹紅は眼前に広がる暗闇の中に、微かな息遣いを感じた。  一寸先も見えない闇を辿り、触れた肌は女性を感じさせる柔らかさを持っている。  それでも、まだ気付いていないふりをして、妹紅はそっと口付けをした。  気付いていたとしても、恐らく妹紅はこうしていただろう。  強く腕を回して胸の中に引き寄せると同時に、今は近い誰かも腕を絡めてくる。  顔を支えるように添えられた手に温もりを感じながらも、二度三度と唇を交わして、息継ぎの為に顔を離す。  それも、添えられた手が許してはくれなかった。  離れたとたんに距離は零に戻り、温かく柔らかい感触と甘い香りが口の中に広がっていく。  誰かの長い髪に指を通しながら、妹紅は身を任せたまま、名も知らない誰かと心を触れ合わせていた。  至近距離で反響しすぎる声は最早聞き取れるものではなく、互いに何を言っているのかは分からない。  それでも確かに、愛しているの声だけは、妹紅の鼓膜をしっかりと揺らしていた。 「……名前、聞かせて欲しい」  はっきり聞こえるように、耳元で小さく囁くと、暗闇の中で誰かが頷いてみせた。  同じように耳元に寄せられた唇に、くすぐったいものを感じながら、妹紅は耳を済ませる。 「カグヤ、と申します。輝く夜と書いて、カグヤ」  濡れた声で囁かれて、暗闇の中で誰かを支える妹紅の手が、汗に濡れていた。  聞き覚えのあるその名前は、思い出すまいとして制するものではない。  妹紅は背中に冷や汗を感じながらも、人違いという言葉を繰り返し続けた。 「……どうか、しましたか?」  耳元で囁かれる声に、聞き覚えのある者を感じながら。  妹紅は震える声で、告げる。 「私、モコウって……妹をモと読んで、紅茶のコウで、モコウ」  瞬間、訪れた沈黙に、妹紅は耳鳴りの音を感じながら、決断した。  命の灯火を指先に、本当に小さな明るい炎を一つ。  互いに照らされた見覚えのある顔に、引き攣った笑顔を浮かべていた。 「え、えぇーーーっ!?」    ■ 「月が綺麗だな、永琳殿」 「そうね……」  永遠亭の畳の上、並んで足を崩した人影が二つあった。  月の淡い青色の光が二人を照らし、落ち着いた雰囲気を感じさせる。 「妹紅が謝ってきた。とある人物のおかげで気付かされた、とか」 「そう……姫も、同じようなことを言っていたわ」  呟くように溢した言葉に、永琳は小さく微笑んで見せた。  慧音はその笑みに、隠す気の無い隠し事を見つける。  長くは無いが、短くも無い付き合いで慣れてしまった回りくどい仕草を、慧音は仕方なしに辿るのだった。 「知っているのだろう? 何があったのか」 「いえいえ、そんな」 「……永琳」 「慧音の頼みなら、仕方がないわねぇ」  殿を抜いた呼び名を溢すと同時に、永琳は笑みを深いものにして、手を叩く。  瞬間、盗み聞きでもしていたのか、兎が一羽、湯呑みと茶菓子を持って入ってきた。 「長くなるから、お茶と一緒にいただきましょう?」 「……うむ」  てゐと呼ばれた兎が持ってきた盆には、湯呑みが三つ。  どうやら隠れる気も無いらしく、当然といった様子で三つの湯呑みに茶を注いでいた。 「さて、何処から話しましょうか。私が知っているのは姫の方だけど、いいかしら?」 「いいさ、どうせ妹紅も一緒に出てくる話だろう」  心地良い風が縁側から吹き込む中、永琳はわざとらしく思い出すふりをしながら、語りを始める。  慧音は嬉しそうな永琳の顔を横目に茶を啜ると、自分の茶菓子に伸ばされたてゐの手をピシリと叩いた。 「まず、私は姫に言ったのよ――」  空に浮ぶ月は丸く、慧音の髪は緑色を帯びて、頭には角が生えている。  いつもなら騒がしい夜に、妙な静寂を感じながら、慧音は目を細めて、遠方の岩山を眺めていた。 「そこで姫は、出会ったの」 「誰かに、か」 「そう、愛しい誰かにね」  細部まで知られた話に、慧音は訝しげな視線をてゐに送る。  妖しい笑みを返してきたところを見ると、恐らく盗み聞きをしていたのはこの腹黒い兎なのだろう。 「……私達の心配も、そろそろ終わるのかもしれないな」 「そうね、本当にもうすぐ……離れて行ってしまうわ」  慧音は湯呑みを傍らに置き、永琳の傍らに身を寄せて呟く。  永琳は微かに驚いた素振を見せながらも、優しく答えを返した。  争いの無い満月の夜、遠方に居る二人の女性を思いながら、慧音と永琳は互いに、満月の夜が暇になることに気付いてしまっていた。  今宵の満月は争いも無く、違和感のあるそれは恐らく、新しい日々の始まりなのであった。  ■  満月の月の輝く夜、光に照らされながら、妹紅は一人、あの穴の前に座り込んでいた。  生温い風は苛立つほどに心地良く、近く感じる声は未だに囁きを漏らしている。 「……何だよ、あの似合わない言葉遣いは」 「貴方の前じゃなければ、いつもあれなのよ」  満月の夜だというのに、互いに顔を合わせるのが嫌なのか、こうして穴を通して罵りを繰り返す。  背中に感じる声は、それと気付かなかった時と何も変わらず、妹紅は歯噛みしながら瞳を閉じていた。 「それを言うなら、貴方だって何? 変態だったとは知らなかったわ」 「あんたがそれを言うの? 私もなんて言ってたくせに……」  互いに墓穴を掘り、気まずい沈黙を感じて口を噤む。  一進一退の応酬に溜息を吐きながら、妹紅は輝く月を見上げた。 「一つ、聞いていいかしら」 「……なんだよ」 「本当に、気付いてなかったの?」 「……あぁ」  半ば捨て鉢となって、妹紅は反響した彼方からの声に答える。 「じゃあ、本気だったりしたの?」 「あんたは、どうなんだ」  尋ね返すと、答えは暗闇の中で迷走を始める。  無言が示す真実というものもあるもので、それは言うまでも無く、妹紅も輝夜も互いに気付かずにいた証拠だった。  互いにそれに気付いているから、妹紅は月を見上げたまま何も言わず、穴からの囁きも途切れている。 「これは独り言だけど!」  長く続いた静寂に、やけに大きな独り言が響いた。  妹紅は何も言わずに、背中合わせでそれを聞いている。  「イナバの一人が、子供を生んだのよ……それで」 「独り言だけど、可愛いのか?」 「……可愛いわ、独り言だけど」  背中合わせで、遠くて近い声は変わらず心地良い。  妹紅はやる気の無い声を上げながらも、笑みを浮かべようとする自分に気がついていた。 「これも独り言だけど――」  暫くは、心を繋ぐ道のように続く穴へと囁きかける。  独り言と称した逢瀬が朝まで続くことだろう。 「――本気だったかもしれないな」  了


■作者からのメッセージ これは独り言ですけど。 思い出してください。自分の言葉を、相手の笑顔を。 親しい仲だからこそ、気遣いを無意識に出来るようにしたいです。 気付いてあげてください。苦言に潜む優しさを、貴方への想いを。 優しさに気付き、受け止められるようになりたいです。 それは穴に隠れているかのように見つけ辛いのですが、 気付いてあげなければならない気がします。 それが、大切な人ならば……。 ……独り言ですけど。  ■本作は第三回東方SSコンペの投稿作品です。



←SSリストに戻る ←TOP