“鈴蘭の丘と“一人”の人形。”
作:眼帯兎
「――ごめんなさい」
黒雲に覆われた空の下、冷たい風に不釣合いな甘い香りが漂う。
霧雨の降る名も無き丘で、女性が一人大きな雫を溢した。
金糸のような長い髪が、水を含んで不恰好に張り付いている。
女性は深い紫のドレスに身を包んでおり、その乱れた金髪は逆に似合って見えた。
「どうか、安らかに……」
冷たい霧雨の中、大きな雫だけが生暖かく、女性に抱かれた人形を濡らしていた。
そして、その人形を抱く小さな赤子は声も上げずに、寒さに身を震わせている。
生易しい霧雨では、鈴蘭の毒を流しきれず、強く吹く風は、一面を白く染め上げる鈴蘭を大いに香らせた。
女性がこの時を選んだのは、安らかな死を願う心と、生き延びてほしいという心の現われだったのかもしれない。
「妖怪としてでもいい、もしも生き延びることが出来たのなら――」
名も無きこの丘は、育てられぬ子供を安楽死させる、悲しみの捨て場所である。
貧しい人間が子供を養えるほど、霧雨の降るこの世界は優しくなかった。
女性も例外ではなく、この場所に悲しみを置いていく。
生きていく為の選択は、罪も無く生れ落ちた命を捨てることだったのだ。
故に、薄く香る鈴蘭の毒を嗅ぎながら、女性は音も無く赤子を白の中へ捨てた。
ついでに微かな願いも置いて、涙だけを多分に流して、名も無き丘で、今日も悲しみが捨て置かれていく。
赤子の隣には高価そうな、出来の良い人形が共にあった。
薄汚れたそれは、恐らく女性の持ち物だったのだろう。
それは供養の為か、慰みの為か、忘れぬ為のものなのか。
恐らく女性にも、理由は分からなかったのだろう。
そして、女性はようやく、最後に思いついた理由を溢す。
「どうか、――てちょうだい」
喉の奥から捻り出した、潰れるような願いは穏やかな雨音にさえ掻き消された。
甘い甘い毒が香る、辛い辛い涙が降る。
鈴蘭は静かに、小さな命を奪っていった。
◆
濡れた頬の冷たさに、老婆は音も無く目覚めた。
刻まれた皺の奥の瞳は虚ろに、見馴れ過ぎた天井を見つめている。
懐かしい、本当に懐かしい夢を見ていた。
そのことだけを、老体は曖昧に記憶している。
明確な形を保ち損ねた夢の欠片は擦れて、もはや何も思い出させることはない。
それでも、老婆はその夢を予測できた。
死も近くなった今になって、思い残すように見る夢など、純白の丘の出来事に他ならないのだから。
「――お迎えが、近いのね」
涙と共に赤子を捨てた日。
あの日まとわりついた金糸のような髪も、今は白く色を失くしている。
長く行き過ぎた老婆は、その夢を死期の知らせのように思っていた。
拭わずにいた涙も乾いて、老婆はようやく窓へと目を向けた。
天の迎えにしては暗すぎる空。懐かしい夢を見たのは、窓を濡らす霧雨のせいだったのかもしれない。
「――っ」
誰かの名前を呟いても、古き言葉は擦れて声にはならない。
乾いた瞳から涙が一粒、皺だらけのほほをぬらしていた。
◆
人妖から忘れ去られた、名も無き白い丘。
里から隠されるように存在するその場所は、文字通り名前が無い。
日当たりも悪く、風ばかりが強く吹きぬけるそこは、鈴蘭が無数に咲き誇っていた。
見回す景色は白一色、香る匂いは甘い毒。
そんな穢れを知らない純白の中、一つだけ異様に目立つ金色があった。
それは純白の海の下、緑の葉に囲まれた中で純白のドレスを身に纏う人の形。
人間にしては小さすぎるそれは、捨て置かれた人形だった。
硝子の瞳は何を見ることもなく、鈴蘭のように白い肌は何をする訳でもない。
人形は鈴蘭と同じように、金糸のような髪を吹きぬける風に流していた。
一人佇む人形に、明確な意識は無い。
この丘と同じように、与えられた名前も無い。
人間の感情が加わらなかったこの道具は、穢れ無き純白である筈である。
しかし、人形は純白ではなかった。
紫色の悲しみが篭っていた。金糸のような願いがあった。
共に捨てられた心は鈴蘭の毒に置かされて、人形の中に満ちている。
それは、長い時と共に自我を生み、人形は今、生まれたばかりだった。
言葉は無く、感情も無く、風に揺れるだけの人形には今、確かめたいことがある。
ドレスの裾に縫い付けられたシルクのブランドタグ。
消えかかったインクで描かれた何かを、人形は意味も無く知りたがった。
人形には言葉というものが無く、文字というものも、当然のように無かった。
故に、人形はその何かを読み取ることは出来ない。
それでも、人形は無言で、読めない名前を眺め続けていた。
長く永く続く時の中を、生まれた意識は何も知らずに名前を見つめ続けている。
この無名の丘で、名前を知らない人形は、他の何も知り得ない。
「……誰か、居るの?」
前触れもなく、人形しか居ない筈の純白の海の中、衰えた女性の声が響いた。
人形が振向く先には、今にも死に絶えそうな老婆が一人立っている。
「こんにちは」
柔らかな声と共に、皺だらけの顔が微笑む。
人形は当然、微笑むことも無ければ言葉を返すこともない。
「……あなた、妖怪なのね」
老婆はそんな人形を恐がる素振も見せず、一歩その足を踏み込んだ。
死を近くに置く老婆にとって、もはや妖怪も恐れることは無いのかもしれない。
その老婆に、人形は自然とネームタグを掲げて見せた。
「それを、読みたいの?」
言葉など分からぬ人形は、頷かなかった。
ただ、生まれた本能のようなもので、ネームタグを示しただけなのである。
老婆はそれを、当然のように読み上げた。
読み上げながら、懐かしい響きに喉を震わせて、瞳に枯れたと思い込んでいた暖かさを感じていた。
「メディスン・メランコリーって書いてあるわ」
「――メディ」
「メディスン、貴女の名前が……書いてあるの」
微笑みと共に、老婆は膝を地に着いた。
固く閉じられた濁った瞳からは、止め処なく涙が零れている。
皺だらけの腕は優しく人形の、メディスン・メランコリーの身体を包みこんだ。
「……生きていてくれた」
メディスンは無感動のまま、老婆を見上げるようにして見つめている。
人形である彼女は、何も答えようとしない。
ただ、メディスンは名前と共に思い出した願いを、その心に刻み込んでいた。
「――あぁ、貴女は私との約束を守ってくれるのね」
その言葉の意味はきっと、すぐ先にある結末を悟ったものだった。
老婆がメディスンを強く抱いた瞬間、老体とは思えぬ水気と艶が、皺だらけだった肌に戻る。
ただ、その水気は毒の色で、艶は瞬く間に張り詰めた風船のような危うさを見せ始める。
触れただけで人間の身体を犯す毒は、老婆の身体を際限なく壊していく。
――私を、殺しに来てちょうだい。
音は無かった。老婆は最後の言葉の直後に、その身を弾けさせた。
最初に老いぼれた顔の半分を弾けさせて、毒に犯された血を振り撒いた。
水音と共に、メディスンの純白を赤黒く染め上げていく。
傷口は爛れ、半分になった顔を更に溶かし始める。
口であった場所からは、毒に解かされた内臓を絶えず吐き出して、赤黒い液体は純白の鈴蘭を染め上げた。
メディスンのドレスを、老婆の生命が赤紫へと変えていく。
いつしか跡形も無く、老婆はこれ以上ないほどに死に絶えた。
いつか、自身が涙と共に小さく願った最後。
メディスンに、己の子供に、老婆はその最後に手を下された。
光を透さない、黒く濁った老婆だったものに浸されながら、メディスンは変わらずネームタグを見つめ続けている。
乱れた金糸の髪は、染め上げられた赤紫のドレスに張り付き、古き日の老婆のように似合って見えた。
「メディスン――」
名前を得た道具はようやく、老婆の血と知識を奪って目覚める。
「――メランコリー」
初めて言葉を得たメディスンは、ひたすらに名前を呟き続ける。
硝子の瞳を見開き、老婆から零れたものを見つめていた。
当然、硝子の瞳から涙は零れない。
それでも、メディスンは何かが溢れているのを感じていた。
僅かな願いを叶ええしまった人形には、もはや悲しみしか残っていなかったのだから。
零れる筈の涙は、代わりにこの雨が流してくれている。
朱に犯された鈴蘭の中、薄く降り注ぐ雨に濡れて、色を変えたドレスを揺らす。
殺してほしいという願いと、捨てる悲しみを持った。
一人の人形が、目を覚ました。
了
■作者からのメッセージ
雨の日に、人の形は血の中で産声をあげました。
覚えがあるのは、捨てる悲しさと捨てられる悲しさだけです。
周りにある白い花、見たことも無いくせに名前の浮んだ鈴蘭の花はとても綺麗で。
人形は意味も無く、赤紫のドレスの胸元を握り締めました。
それは悲しいという感情だと、人形は知っています。
知りながらも、初めての感情に顔を顰めながら。
人形はいつまでも、鈴蘭を見つめ続けていました。
誰かの願いを、忘れたまま。
■
初のメディスンSSです。
求聞史記の無銘の丘の記述から、この話を思いつきました。
上手く描けているかは疑問ですが、拙く感じられたら申し訳ないです。
ごめんよメディ、次があれば今度は可愛く書くから。
毎度言いますけど、ハッピーエンド分が足りない。
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