“たいせつなうた。”作:眼帯兎激しい雨が幻想郷を包み込んでいた。 黒い雨雲が夕暮れ時の人里から離れた森の僅かな空を覆って、辺りを夜のように暗く深くしていく。 その暗い森降りそそぐのは、冷たく激しいだけで優しさも何も無い、まるで罪人を責めるような雨だった。 そんな冷たい滴を受けた翼が酷く疼いて。いっそこのまま切り落としてやりたいとすら思った。 いつからこうして雨に打たれていたのだろうか。 時間の感覚は既に無い。四肢は力を失って、翼も折れた。もはや動くことさえ叶わない。 深い闇の中、僅かに聞こえるのは自分の荒い息だけで、他の全ては雨の弾ける音に飲み込まれていく。 何時間にも何日にも感じた死を待つ時間を、鳥は救いを求めることもなく、ただ空を見上げながら過した。 暗い森で、鳥はひたすらに孤独だった。 鳥が這い蹲る地上には血の混ざった雨がドロドロと流れている。 倒れ伏した身体に滴るその血は自分のものなのか、それとも誰かのものなのか。 それさえも、意識を朦朧とさせる鳥には思い出せない。 闇の中、唯一黒以外の色を映すそれを流してしまう雨を鳥は何も思うことなく見上げ続けている。 ――全てが間違っていたことを、痛いほどに感じながら。 ◆ いつもと同じような日だった。 いつものように氷精や化け猫の友人を構ってやり、幽霊楽団と歌を歌って、いつものように屋台を開く。 そんな中、少しだけいつもと違ったのは、風が強かったことだけだった。 日が暮れる頃になると、強かった風に嫌な空気が混じり始めた。 雨の匂いを含んだその空気にミスティア・ローレライは嵐が近いことを悟る。 こんな夜に出歩く客は居ないだろうし、本格的な嵐になって雨が降り始めれば飛ぶこともできなくなってしまう。 強かった風が更に力をつけた頃、ミスティアは思い切って屋台を閉めることにした。 半刻ほどが過ぎて、全てが終わる頃にはだいぶ風が強くなっていた。無情に吹き荒れる風に作業が難航してしまったのだ。 空は雨雲に覆われ、月さえ拝むことはできない。暗い森の木々がザワザワと鳴り、空で風が不気味な唸りを響かせている。 どうにか雨が振る前に巣に辿り着きたかったのだが、それは淡い期待というものだろう。 この風では自在に風を捉える自慢の羽も悲鳴をあげてしまう。 ミスティアは飛ぶことを諦めて、暗い夜道を歩き始めた。 「それにしても、何の気配もしないわ……」 一人呟き、歩みを進める森に気配は無い。 この天気だ、好んで出歩く人妖もいないのだろう。 そんな雰囲気を不覚にも不気味に思ってしまった。森の中には風の唸る音が響き続けている。 ――轟。 瞬間、風の塊が木々を抜けてミスティアを襲った。 激しい風の奔流に吹き飛ばされそうになりながら、手ごろな木にしがみついて耐える。 周りの木々が軋む音がギシギシと鳴り響いていた。 自然の怖さを空を行く者であるミスティアは痛いほどに知っている。 恐らく、この風に呑まれれば命さえ危ういだろう。 必死に耐えて、突風が過ぎた頃には血を薄くした手のひらが白く血の気のないものになっていた。 息を吐く間さえも惜しく感じて、ミスティアは木の陰から身を乗り出す。 「急がないと……」 呟いて、歩を進めようとしたとき。ふと違和感を覚えて頭に手を乗せた――帽子が無い。 先程の突風に飛ばされたのだろうか、お気に入りだっただけにミスティアの顔に焦りが芽生える。 この強風にこの暗い空では何処へ飛ばされるかわかったものではない。 慌てて周りの木々を見渡した。暗い森の中、視界は酷く悪い。 それでも、運がよかったのか帽子はすぐに見つかった。 見慣れたお気に入りの帽子が森の中で飛びぬけて高い大きな古木に引っかかっている。 ミスティアは安堵の溜息を吐いて、自慢の翼を羽ばたいた。 そして、自分が油断していたことを酷く後悔したのだった。 ――轟。 帽子を掴んだ瞬間だった。二度目の突風がミスティアの身体を飲み込んでいく。 容赦ない暴力の塊にミスティアはバランスを崩し、暗い森に吸い込まれるように落下していった。 小柄な身体は重力に引かれ、大小様々な枝にぶつかりながら徐々に落下速度を下げていく。 地上に激突した音をやけに遠くに聞いて。 ミスティアは意識を手放した。 ◆ 暗い森を包んでいた黒雲は流れて、空には歪な月が浮かんでいた。 木々は嵐の名残として少しの枝葉を失いながらもその姿を保っている。 「痛っ!」 地に堕ちたミスティアは落ちてきた小さな石にその意識を覚醒させた。 朦朧とする意識を励ましながら、ゆっくりと辺りを見回す。 暗い、そして何より狭かった。 周囲は土の壁に覆われていて、空を見上げると歪な月が丸い窓の向こうに見えた。 そして、這い上がること叶わぬ深い穴に敷かれた藁。恐らく獲物を殺さずに鮮度を保つ為のものだろう。 ミスティアは今、獣を落とす罠の中にいる。 「獣の罠にー雀が落ちてさぁ大変ー……痛っ」 苦笑いを浮かべながら、何とか強がって歌ってみる。 なんにせよ、この罠のおかげで助かったのだから文句は言えない。 見たところ、身体に命に関わる重大な怪我はなかった。 枝にぶつかったときにできたであろう小さな擦り傷と打ち身が身体の所々にあるくらいだ。 そして、意を決して立ち上がったときになって初めて、ミスティアは自分の身体の一番大事なところを見落としていたことに気づいた。 命に関わる部位。そう、自慢の翼が不自然に折れ曲がっていた。 不思議と麻痺しているのか強い痛みはなく、ただ少しズキズキとするだけだった。 こうなってはできるだけ早く手当てをしなければ危険だろう。 もしも折れたままの翼が骨をつなげてしまったら二度と空を飛ぶことは叶わない。 それ以前にだ、空も飛べない鳥妖怪がこの森を生きて抜けることはできないだろう。 妖怪が食うのは何も人間だけではない。 飛ぶことのできないできない鈍足な餌が、この暗い森を抜けることなど不可能に近かった。 そして、いつもは襲われる側である人間も脅威である。 生き物の中で一番残酷なのは他でもない人間だ。 この羽を見た瞬間に、人間は長物を持ち出してミスティアを突き殺すだろう。 人間は残酷だ、時に妖怪を生きたまま痛めつけてその肉を食む。 妖怪であっても心ある者ならばそんな残忍なことはしない。 それは食事のマナーであるかのように、強い力を持った妖はそれを守る。 人間は馬鹿だから、臆病だから、あえて自分の優位性を誇示したがるのだ。 ミスティアは人間があまり好きではない。 「ミスティア?」 全てを諦めた時、突然と聞こえたその声にミスティアの心臓が跳ねた。 声の主は自分の名前を知っている、自分を接点を持っている。 儚い希望を現実のものに感じて、ミスティアは暗い穴の中から空を仰ぎ見た。 最初に浮かんだのは疑問、そして落胆へと繋がっていった。 丸い窓から覗く姿は間違えようもない、純粋な人間の青年だ。 名前を知っていたのは恐らく屋台に足を運んだことでもあるのだろう。 ただそれだけだ。妖怪が屋台をやっているなんて人間は気づいてすらいない。 青年はその顔を険しいものにしていた。 その視線の先にあるのはミスティアの背後にある折れた翼。 青年は何も言わず顔を引っ込めて、バタバタと走っていった。 恐らくは仲間を呼ぶ為か、もしくは殺す為の道具を取りにいくのか。 ミスティアは乾いた笑いを浮かべながら、自分の行く道を思う。 それはとても自然なことで、命を持ったときから決まっていることだ。 深い穴から抜け出すことさえ今のミスティアには叶わない。 妖怪に殺されるか、人間に殺されるか、空腹に殺されるか。 三種の道は何れも同じ果てへと行きつく。 もしかしたなら、あのまま落ちて息絶えた方が楽だったのかもしれない。 この世はいつでも無情だとミスティアは思う。 唯一、ミスティアが助かる方法は同属か友人達に発見されることだろう。 子供向けの物語のように危機に駆けつけてくれる――残念だがありえない。 同属は滅多に地を歩くことはないし。あの友人達が此処を通る道理もない。 縋るにはあまりにも儚い希望だった。 人間の足音が遠くに聞こえる。 死の足音がパタパタと地中に響く、その音が穴の中にいる彼女にはよく聞こえた。 慌てたように走るその音は確実にミスティアへと近づいていく。 目を閉じて、最後は静かに逝こうとミスティアは思っていた。 ――きゅるるる……ぐぅ。 決意の直後、間抜けな音が鳴り響く。 気を失ってから結構な時間が経っているようで、腹の虫が鳴りだすのも道理というものだ。 緊張感のない自分の身体にミスティアは僅かな笑いを溢す。 どうせ最後なら、歌いながら死んでやろうか。 無邪気なその音に、辛気臭い気分は何処かへいってしまった。 「穴の中ー穴の中ー小鳥は煮える湯を浴びてー」 そういえば、自分の歌はいつでも物騒だと友人達は言っていた。 思い出して、彼女達の顔が頭に浮かぶ。 もう会えないと思うと、不思議と寂しい気持ちになった。 自分は、あの友人達が好きだったのだと痛いほどに感じていた。 足音はすぐそこまで来ていた。 砂が落ちてくるのを感じて、ミスティアは天を見上げた。 月の逆光でよく見えないが、青年が一人、その手に何かをしっかりと持って穴を覗いている。 そして、手に持たれた何かが、その手から放たれる。 目を閉じて、ミスティアはそれをゆっくりと待った。 ――こつん。 またも間抜けな音が鳴る。 それが頭に何かがぶつかった音だと気づくまでにミスティアは数秒を要した。 硬く閉じた目を恐る恐ると開いていくと、眼前に垂れたそれは頑丈そうな重みのある縄だった。 ミスティアは縄を見つめながら、状況が上手く飲み込めず呆然としてしまう。 「大丈夫か? 早く上がってこいよ」 男の癖に透き通った声をしている、ミスティアは先ずそう思った。 次に今の状況を飲み込み、驚きを隠さず顔に出した。 つまりあの青年は妖怪を縄で引き上げようと言うのだろう。 戸惑いながらゆっくりと縄を掴むと、出ることは叶わないと思っていた穴を引き上げられていった。 何故、この人間は自分を助けるような事をするのか、妖怪であり、青年ではないミスティアには解らない。 考えている間に穴の出口まで引き上げられて、青年は手を伸ばしてきた。 その手を掴むことを本能的な部分が躊躇する。恐らく、妖怪なら誰でも同じ反応をしただろう。 人間は単純で分かりやすい存在である筈なのに、青年の真意はまるで解らない。 目の前で手を掴まないことを不思議そうに見つめる青年は異常に見えた。 ミステイアが感じたのは、恐れだったのかもしれない。 「――あ」 突然と手が温かい感触で包まれて、ミスティアは僅かに声を漏らした。 掴むことを躊躇する彼女の手を、大きな手がしっかりと掴む。 その手は無骨で硬く、そのくせ温かくて優しい不思議な手だった。 そんな手に引かれながら、久しく見たような気がする外界へと足を下ろす。 歪な月が傾いて、地平線へと引き寄せられる中。森は静寂に包まれていた。 ミスティアはゆっくりと振り返り、青年の顔を見る。 相変わらず険しい表情に僅かな焦りが滲んだその顔は平凡だった。 他より整っている感じは見受けられるが、抜きんでて優れてわけでもない。 そんな平凡とした青年だった。 ――何で助けたの? 問いかける前に、イスティアは足の力が抜けるのを感じた。 ぺタンと尻餅をつく形で倒れこむと、身体中の傷が夜風に沁みたように痛む。 その苦痛に顔を歪めるミスティアの身体に、人影が映る。 見上げると、顔のすぐ近くに青年の顔があった。 「な……きゃっ!」 声を上げる前に不思議な浮遊感を身体に感じて、言葉は奇声へと変化する。 青年の身体を近くに感じて、ミスティアは自分がお姫様抱っこの形で抱き上げられていることに気づいた。 これは見る側はもちろんされる側としてはかなり恥ずかしい格好だった。 そんな現状を把握したミスティアは頬に僅かな熱を感じながらも講義の声を上げようとする。 しかし、ミスティアが何かを言おうとする前に透き通った声で青年が告げた。 「ちょっとだけ我慢してくれ、すぐに着く」 その声にぼんやりとしながら、走り出した青年の温もりを感じながら空を見上げる。 夜空には歪な月が美しく輝いて浮かんでいた。 ◆ 「ちょっと待ってろ」 青年はミスティアを腕の中から下ろすと、そう言い残して部屋の奥へと行ってしまった。 あの後、ミスティアは森からそう遠くない、人里から少し離れた庵に連れて来られていた。 どうやら此処は青年の住処らしく、室内には彼の匂いが漂っている。 なんとなく落ち着かなかった。 それを自分の命の危険だと飲み込んで青年が来るのを待つ。 何故か逃げようとは思わなかった。 命の危険が落ち着きのなさだと思いながら、その身は矛盾した行動を取っている。 それに気づきながらも、ミスティアは居心地悪そうに青年を待っていた。 戻る気配は無い。 することと言えば呼吸をすることだけで、仕方なく辺りを見回す。 質素で無駄のない所、その表現が妙にしっくりくる部屋だった。 青年以外に暮らす者も居ないように見える。 煮炊きをする竈に食材の積まれた壺や籠が少量、それ以外に目ぼしい物はない。 幻想郷の一般的な人間の家だった。 「珍しいのか?」 「――っ!」 背後から聞こえた声にミスティアの肩が跳ねた。 入って行った方とは逆の玄関から、青年が不思議そうな表情を浮かべて近づいてくる。 その手には不揃いな形の枝が何本か掴まれていた。 「……何それ」 「木の枝だ、ほしいか?」 「見れば分かる、いらないわ」 「そうか、それじゃあ後ろを向いてくれ」 青年の指示にミスティアは首をかしげた。 何故枝なんて持ってきたのかも、それじゃあで繋がる意味も分からない。 理解できないまま大きな身体を見上げてみるが、どうやら彼は背を向けるのを待っているらしく、動こうとはしなかった。 ミスティアは躊躇い、二人して見詰め合いながら沈黙し続ける。 気まずい沈黙に先に折れたのはミスティアの方で、溜息を溢しながら背を向ける。 危険だとかそういうことは既にどうでもよくなっていた。 向けた背中に青年の指が触れる。 なんとなく気恥ずかしくなり、ミスティアは視線を上に向けてじっと待った。 ――パサリ。 不意に、布の落ちるような音が下から聞こえてきた。 疑問に思い、俯く形になったミスティアの眼前に広がるのは己の身を包んでいたはずの見慣れた服だった。 ミスティアの頭が現状を理解するのに十と二秒。声を上げるのに七を数えられる間が空く。 青年が服を手早く脱がせた、それがミスティアの鳥頭が出した結論だった。 「な、何っ――痛ぁ!」 瞬間、羞恥に赤く染めた顔を苦痛に歪ませ、抗議の声は悲鳴に変わった。 痛みに耐えながら、青年の方へと振り返ると、枝を床に置いたまま緑色の薬壺を手に持っていた。 「あぁ、しみるけど我慢しろよ」 言うのが遅い、声を発せないほどに痛む薬の刺激に口だけを動かしてミスティアは訴えた。 その必死の講義を気に留めることなく、青年は黙々と手当てを続けていく。 「……擦り傷くらい、そんなの塗らなくて大丈夫よ」 痛みにも慣れて、ミスティアは素っ気なく告げた。 ミスティアは妖怪だ、この程度の傷ならばそれこそ一日で治るだろう。 クルクルと包帯が巻かれ終わって、青年の手が不自然に折れた翼に触れた。 「これはそうもいかないだろ?」 透き通った声、心配しているような声で青年は言う。 確かに、この翼はちゃんとした治療をしなければならないだろう。 ばつが悪そうに、ミスティアは頷くことで肯定を示した。 「これ、噛んでろ」 柔らかい布切れを渡されて、よく分からないままその口に咥える。 それを確認した青年の温かい手が翼を掴み。慎重に位置を確認していく。 そして、その方向を強引に正常な場所へと戻した。 鈍い音を体内から聞いて、最初に感じたのは激しい熱だった。 その熱はは少し間を置いて激しい激痛へと変わる。麻痺していた痛みがきっかけを得て甦ったようだった。 そんな激しい痛みに耐えるように、ミスティアは涙に視界を滲ませながら声にならない叫びを上げ続けた。 ミスティアが喘ぐ横で、ズキズキと痛む翼に枝木が当てられ、その上を包帯が通っていく。 そして、仕上げとでもいうかのように、青年はミスティアの頭をくしゃくしゃと撫でた。 青年の行う無骨で乱暴なそれは、反して優しいものに思えた。 涙で滲んだミスティアの視界には、困ったように戸惑う青年が映しだされている。 ミスティアの心のどこか隅の方に、不思議な気持ちが生まれていた。 ◆ 「何で助けてくれたの?」 目を合わさないまま、ミスティアは問う。 乱暴な手当ての後、青年は痛みに涙を浮かべるミスティアを撫で続けてくれていた。 そのことがなんとも気恥ずかしく思えて、ミスティアはその後一度も目を合わせようとしなかった。 問いに答えは返ってこない。 青年の表情は見えないが、どう表現しようか思案しているようだった。 「怪我してたし、出れそうもなかったから」 数秒の間を置いてから、分かりきったことを青年は言う。 どうもこの青年は人の聞きたいことを外すことが多いようだった。 ミスティアは呆れながらも言葉を続ける。 「私は妖怪よ?」 「知ってるよ、屋台で見てたし」 「見えてたのね、普通は見えないようになってるんだけどな」 「酒には強いほうでね、目もいいし。常連なら気づいたさ」 夜中、鳥目になって酒も入った人間は屋台に立つミスティアを妖怪とは思わない。 たとえ目が良いといってもよほど目を凝らして見ない限り、翼は見えないだろう。 そして、大抵の人間は店主に注目するようなことはしない。 その意味で、青年は変わっているとしか言いようがなかった。 「怖くないの?」 「怖いよ、天敵みたいなものだからね」 青年は即答する。 聞いて、ミスティアは少しだけ喉の奥がズキリと痛んだ気がした。 そして、疑問が一つ浮かんだ。それならば何故、私を―― 「それなら、なんで助けたのよ!」 考えが浮かんで間もなく、ミスティアは声を荒げて言った。 きょとんとした青年の顔が目に入る、自分でも何故こんなに苛々としているのか分からなかった。 分からないのに、ミスティアの苛立ちが収まることはなかった。 「お前が怖がってたからかな」 「……へ?」 「お前もまた人間に恐怖を抱いていた。互いに恐怖を抱き合う存在は、案外平和でいられるものだよ。自分の命が危険に侵される可能性は低くて、顔見知りが助けを必要としていた。だからかな、お前を助けようと思ったのは」 恐れを抱かぬ青年は言う。ミスティアの中に僅かにも恐れがあったから、自分は大丈夫だと。 確かに、ミスティアは恐れを抱いていた。しかし、恐れるあまり青年を殺すという選択もあったはずだ。 青年は歪な考えを持っている、いつ殺されてもおかしくない危険な思想。 その理解できないその思想がどうしようもない焦燥感を与えてくるようで、自分でもおかしいと思うくらいに、青年への苛立ちを覚えた。 「もし私が貴方を殺して食べてたらどうするのよ!」 「食べるのか?」 「食べるわよ、今は屋台じゃないもの、お客じゃないなら食べるわ」 「それは怖いな」 透き通った綺麗な声をした青年を、ミスティアは叱責する。 こんな生き方は死を早めるだけだと、何とかして分かってほしかった。 青年は理解する素振さえ見せない、ミスティアは、己を惨めに思いながらも言葉を止めようとは思わなかった。 ――ぐぅ それなのに、狭い室内に情けない音が鳴った。正確にはミスティアの腹部から。 青年は不思議そうにミスティアを見下ろしている。 ミスティアは今すぐあの落とし穴へと駆け戻り、そのまま人知れず野垂れ死にたい衝動に駆られた。 何故だろう、何故この腹の虫と言うのは真剣な場面で鳴り響いてくれるのだろうか。 ミスティアは蛍の妖怪である蟲の王な友人を締め上げてやりたいと思う。半ば本気で。 俯いて情けなく声にならない小言を呟くミスティアの頭上から、笑う声がした。 この場には二人しか存在しない、顔を上げなくてもこの笑い声は間違い無く青年のものだと分かる。 頬に熱が上り、見上げることもできなくなって。ミスティアはひたすらに下を向いて縮こまることしかできなかった。 「少し待ってろ」 「……貴方、さっきからそればっかりね」 どうにか憎まれ口を叩いて、顔を上げた先には青年の背中があった。 完全に無防備で、自分の背後にいるものが無害だと言わんばかりの背中。 その姿に収まらずにいた怒りが込み上げてきて。 ミスティアは気配を殺しながら音も立てず立ち上がった。青年がそれに気づくことはない。 ミスティアが既にその背中に触れることのできる所まで近づいたというのに、青年は気づかない。 伸びた首筋、ここに肉を食い千切る為の犬歯を突き立ててしまえばそれで終わる。 ゆっくりと、ミスティアは青年の首へと顔を近づけていった。 それは妖怪なら当然の行為だ。 確かに、ミスティアには恐れがあったかもしれない。 しかし、その真意が分かった今、ミスティアは青年に恐れを抱いていない。 (馬鹿だな……そこまで考えなさいよ……) 牙は既に息のかかるほど近く、少し首を動かせば肉を貫くところまで来ている。 ――不意に、助けてくれた青年の姿が脳裏に浮かんだ。 牙が止まる。 青年の透き通った声、それを生みだす喉はさぞかし美味いことだろう。 だというのに、ミスティアの身体はそれ以上動くことはない。 無意識の内に、ミスティアは牙を引いていた。 助けられた負い目だと、自分でも理解できない感情を無理矢理納得させて、ミスティアは思わず溜息をこぼした。 そして、今更ながら、自分と青年の距離が近過ぎたことに気がつくのだった。 「どうした?」 気がついたときにはもう遅い。青年はミスティアの気配に気づいたように振り返る。 顔を寄せていたミスティアの唇に、やけにあっさりと青年の唇が重なった。 カチンと、歯のぶつかる音が僅かに響く。痛みは感じない。 青年の匂いが包まれるほど近く、口の中に広がる。 他人の唾液の味、流れ込んでくる青年の匂い。 朦朧とする意識にミスティアの本能が何かを告げていた。 ――この人間を貪れ。 身体は意識の届かぬ場所で本能に従い、勝手に動き始める。 繋がった唇から舌をねじ込み、歯をなぞり、より深くその味を確かめていく。 青年は動かない、目を丸くしたまま状況を飲み込めずにいるようだった。 それを、どこか意識の端っこで可愛いなと感じていた。 唾液の混ざる水音が響く。 まだ足りない。そう言わんばかりにミスティアは青年の首に手を回し、その舌を絡め取っていく。 必死で舌を絡めながら貪るそれは、どこか幼稚で拙い、色欲に塗れた行為だった。 妖と人が深く繋がっていく。 そして、この舌を噛み千切ってやったらどうなるのだろうと、妖怪の思想が浮かび上がってきた。 妖怪は思う、この無防備な人間を貪ってしまえと。 絡め取った舌にゆっくりと歯をあてて、必死でそれを押しとどめようとする意識に気がつく。 ――駄目だ。 瞬間、乾いた音と衝撃でミスティアの意識にかかった靄が晴れた。 「痛ぁ……」 「……腹が減ってるのは分かったから、ちょっと待ってろ」 青年の放ったでこぴんでミスティアのおでこが赤く染まっていた。 息も荒く、顔を赤らめたまま青年は背を向ける。 ミスティアを羞恥の情が支配していく、これではまるで夢魔だと俯きながらに思った。 気まずさに拍車をかけて、部屋には沈黙だけが流れる。 「……ごめん」 高ぶった気持ちを静めながら、沈黙に耐え切れなかったかのようにミスティアは呟く。 答えは返ってこない。 代わりに、青年は立ち上がり、粥の入った椀を差し出してきた。 その顔はまだ赤い。それがミスティアの羞恥をさらに深いものにする。 「ありがとう……」 消え入りそうなほど小さな声で言った礼に、青年が小さく頷いた。 一口、粥を掬い上げて見つめる。 人の食べ物を食べたことが無いわけではない、思ったのは不味くはないと言うだけだった。 木の実はそのままの方が美味しいし、野菜もわざわざ煮る必要もない。 そして、妖怪は人を攫い、食む者だ。どうあってもそれは変わらない。 故に、人間以外を食することは少ない。 思考を止めてミスティアが粥から目を上げると、青年と目が合った。 食べるのを待っているのか、じっと粥を見守っている。 その目には期待のようなものが宿っていた。 青年の目に押されるように、ミスティアが掬った粥を一口喉へ通す。 すると、余計な味付けのない水気のある口あたりが広がった。 「……おいしい」 最初は世辞で言うつもりだった言葉が、感嘆のものとして発音される。 それを聞いた青年がぎこちなさを残しながらも微笑んだ。 その笑みに何か気恥ずかしいものを感じて、誤魔化す為に粥を口へと運ぶ。 「村の人達が愛を込められて育てられた米だ、人間なんかよりずっと美味いだろう」 粥を口へ運びながら、誇らしげに青年は言う。 その言葉が脳に先程の青年の味を思い出させて、ミスティアは慌てて頭を振って思考を散らした。 この青年と出会ってから調子が狂いっぱなしだと、ミスティアは思う。 笑顔を見るたびに気恥ずかしくなる。透き通った声を聞くたびに不思議と心が揺れる。 空から落ちたとき、頭でも打ったのだろうか。感情を壊してしまったのだろうか。 ミスティアの思考が答えを得ぬまま回っていく。 「……あぁ、もう一つあった」 「――え?」 ミスティアの思考が変な方向へと向い始めた頃、不意に青年の声を聞いて顔をあげる。 「お前を助けた理由」 「……うん」 「せっかく良い屋台を見つけたのに、行けなくなるなんて嫌だろう」 朗らかに笑いながら青年は言う。 その言葉に、ミスティアは何かを期待していたように落胆した。 そして、同時に疑問が浮かび上がる。 何故、自分は期待なんてしているのだろうか。 答えは思い浮かばない。 「歌が好きなんだよ」 「歌?」 「そう、歌。なんかうるさいのに落ち着くっていうか……な」 「……うるさいとは失礼ね」 照れ隠しか、顔を背けながら青年が続ける。 返した言葉は不機嫌そうに、内心の想いとは真逆のものを返した。 青年は悪びれた様子もなく、「悪い」と一言呟くだけだ。 「元気が出る感じがするよ」 「そう、ありがと」 笑いながら言うものだから、笑みが伝染したかのようにミスティアも笑みを溢す。 ミスティアの心が揺れていく。 ◆ 夜が沈んでいく、深く深くその身を沈めて世界を染める。 朝が上り始める、世界の裏側で夜と唇を交わすために折り返してくる。 世界はまだ夜に包まれていた、夜行の蟲が沈みゆく月へと唄いかける。 慣れない布団は寝にくい。 そう感じながら、折れた翼に負担を掛けないよう横たわるミスティアは薄く目を開けた。 あの後、揺れる心を押さえつけながら帰路を急ごうとすると引き止められてしまった。 ――その折れた翼で夜道を歩く気なら、ネギでも背負って行くといい。 皮肉的に言った後、布団を敷き始めた青年に日が昇るまでここで寝てろと言われた。 せっかく拾った命を無駄にすることもない、それがミスティアの言い訳だった。 無意識の内に、ミスティアは己の考えを理解している。 (また、無防備に寝ちゃって……) 灯りの消えた暗闇の室内、ミスティア眼前には無防備に眠る青年が居た。 布団は一組しかなかった為、青年は壁を背にしながら寝顔を晒している。 それは安らかに、隣で眠るものが妖怪だと思ってもいないかのように。 聖者のような雰囲気すら感じさせて、彼は静かに寝息をたてていた。 薄く開いた目を閉じて、溜息をひとつ。 そして、布団を押しのけながらミスティアは立ち上がった。 けして大きな音は鳴らさぬように。それでも気配は消さず、床を鳴らしながら歩いていく。 まるで気がついた青年が自分に声をかけてくれることを願うようにゆっくりと音を鳴らした。 それでも結局気づかれないまま、見下ろすほど近くにミスティアは立ってしまった。 身を屈めて目線を合わせる、青年に起きる気配はない。 思い出されるのは年の透き通った声、絡めた舌の味。 妖怪は青年を欲している、その身体を貪ることを願っている。 ミスティアは、この男を欲している。 だから止めてほしかった。最後にあの透き通った声を聞かせてほしかった。 ミスティアの中には二つの感情がある。 一つは食欲、妖怪としての心。 そして、もう一つは聞かれれば笑い飛ばされてしまうような少女の心。 妖怪は人間を食む存在であり、青年は無防備で愚かな餌に過ぎない。 ミスティアは理解している。理解しながら、青年に止めてほしかったと思っている。 それは矛盾だ。心に二人の自分がいるような、ちぐはぐな状態。 それももう終わる。ここまできたら、妖怪の心が止まることはない。 止めてくれる者もここには居ない。 運命は定まった。 後は少女の心が壊れるほど無情に、目前の人間を喰らえばいい。 ミスティアはゆっくりと目を閉じて、青年の微かな寝息を頼りに牙を向ける。 ――心が壊される。 唇が青年の肉を捉えた。 ミスティアはぎこちなく身を寄せて、薄く目を開く。 それは、ほんの二、三秒の短いキスだった。 唇を離すと同時にミスティアは逃げるようにその身も離す。 壊れたのは、妖怪としての心だったのだ。 「……バイバイ」 告げて、ミスティアは立ち上がる。 先程とは違い、気づかれることのないようにゆっくりと。 未練は溢れるほどに持ちながら、少女は背を向けて帰路へと向った。 ――食わないのか。 幻聴のような、やけに透き通った声がミスティアの背中へと届く。 振り向くことはできない。 ミスティアは、もう一度青年と向かい合えば戻れなくなることを理解している。 故に、ミスティアは背を向けたまま、どんな顔をしているかも分からない青年と相対した。 「……起きてたんだね」 「……少し前にな」 キチキチと蟲の鳴き声だけが遠く聞こえる中、二人は沈黙を保ったまま時を過ごす。 言葉を交わせば、それが最後になるという思いが二人にはあったのかもしれない。 それでも、青年はゆっくりと口を開いた。 「一つ聞いていいか?」 「……うん」 ――なんで、食わなかった。 青年は言う、出会ったときからいつでも殺せたくせに、一度は食おうとしたくせに。 何故、我慢してまで留まったのか。 「……助けてくれたからかな」 嘘はない、それでもミスティアはもっと強い、確かな理由を隠して告げた。 「それに、私の歌を好きって言ってくれたから」 「そうか」 「でも、次は我慢できるか分からない。だから、屋台にはもう来ない方がいいよ」 「……あぁ」 背後からの声に、感情の色はない。 背を向けたミスティアには、青年がどんな顔で答えたのか分からなかった。 会話は途切れた、残された道は元の場所への帰路のみ。 「……あのさ」 「何?」 再度、別れの言葉を言おうとする前に、青年の声が響いた。 ミスティアは出そうとした足を止めて、続く言葉を待った。 無視して進むこともできたが、その前に淡い期待が生まれてしまった。 「助けた理由、もう一つあるんだ」 聞いたらきっと戻れない、少女の心がそれをさせてくれない。 それでもミスティアは息さえ止めて、青年の告げる言葉を待ち続けた。 「……お前が好きだから助けた」 その言葉に、少女の心が大きく揺さぶられる。 それは思ってもなかった突然の告白だった。 鼓動は早く、顔には熱を感じながらも、ミスティアの口は心と間逆の言葉を紡ぐ。 「私は、妖怪なのよ」 「知ってるって言っただろ」 「人間が妖怪と結ばれたら、どうなるかわかってるの?」 確かに、妖怪と結ばれる人間は幻想郷にも多少はいる。 しかし、その全てが村から迫害され、確実に追いやられていく。 比喩などではなく、文字通り人は一人では生きていけない。 物流すら絶たれれば、自給自足といっても必ず足りないものは出てくる。 人間は妖怪と結ばれても不幸にしかならない。それは誰もが知っているはずだった。 「そんなことはどうでもいい」 それなのに、青年ははっきりと告げる。気持ちだけを変わらずぶつけてくる。 背中越しに伝わるそれは、ミスティアを振り向かせるのに充分すぎるものだった。 「嫁に来てほしい」 言葉に振り返る、もう二度と会ってはいけないと思っていた青年の顔を見つめる。 青年は無表情だったが、そこには僅かな羞恥と恐れが混じって見えた。 「会ってまだ日も昇らないのに、そんなこと言うのね」 「いや、俺の方は結構前から一目惚れだったからな」 「あぁ、そうかい」 「で、返事は?」 待つ、そんな甘えた言葉が吐かれることはない。 最後の時にしか聞けない返事だ。待てとも言えないし、待ってるとも言えるわけがない。 恐らく、最初からミスティアの返答は一つしかなかったのだろう。 それでも、口にするのは恥ずかしくて。 ゆっくりと青年の前まで歩み寄ると、青年の懐に入って腰に手を回す。 「……ん」 子供の抱擁のようなそれは、まるで己が相手のものだと示すような、そんな感情の体現だった。 できればキスか何かで応えたかったが、それをする勇気があるなら言葉も返していただろう。 しかし、そんな幼稚な愛情表現を青年は抱き返すことで応えてくれた その暖かい手がミスティアを包み込み、少しだけ勇気を与えてくれた気がして。 「……あぁ、もう一つあった」 「ん?」 「貴方を食べなかった理由」 「……あぁ」 ただ一言だけ、遠まわしだが確実に、その答えを言った。 「私も、一目惚れだったんだ」 言ってから、ミスティアは激しい羞恥の熱に襲われて、顔さえ上げられなくなってしまう。 その紅に染まった顔を、顎に添えられた手で強引に上げられて。 勇気の出ないミスティアに代わって、今度は青年の方から優しいキスをするのだった。 ◆ 窓から差し込む光が瞼を抜けて意識を覚醒させていく。 あの夜から数刻しか経っていないのに、自然とミスティアは目を覚ました。 視界には見慣れない天井があった。見慣れない部屋の中にミスティアはいた。 窓の外は見慣れない景色だった、見慣れない朝がそこにあった。 隣には、愛する人が眠っていた。 その顔に、自然と唇を寄せる。昨夜から夫婦なのだ、キスよりも恥ずかしいことも既に済ませてある。 半裸の身体を見下ろしながら、恥ずかしがることもないとミスティアは思っていた。 それでも、行為を終えて上げた顔は少し紅が混じる。当分は慣れることなどないようだった。 少しの間をおいて、青年が小さく呻きながら目を覚ます。 それを確認して、ミスティアは顔を覗きこみながら柔らかく微笑んだ。 「……おはよう……奥さん」 「おはよう、旦那さん」 薄く目を開いた青年が、少し考えてからそう呼んだ。 だからミスティアは自分の夫へ躊躇いなく、朝の挨拶を二度目のキスで応えた。 唇を離した二人は、照れを残しながらも幸せそうに笑い合っている。 目を覆いたくなるほど恥ずかしく、幸せな時が始まっていた。 その後、朝餉を共にしてミスティアは一度家を出た。 住処に置きっぱなしの資材と衣服を少し運んでくる為だ。 青年が運ぶのを手伝うと申し出たが、家を出たときの状態が見せるに耐えられない状態を思い出して、ミスティアはそれを堅く断った。 日の高い今なら妖怪が道中を歩くこともないだろう。 見送る青年に手を振りながら、ミスティアは森の中へと歩き始める。 その道中、ミスティアはずっと青年のことを思い浮かべていた。 彼の好物はなんだろうか、自分に作れるものだろうか、作れなかったら学べばいいか。 屋台はどうしようか、彼と共に働けたらきっと楽しいだろう。 彼といろんなところに行きたい、あの透き通った声の歌が聞きたい。 様々な思考が絶えず浮かんできては、ミスティアの表情を緩めていく。 この場にミスティアの友人達が居合わせたなら、揃って言ったであろう。 色呆け。 恐らく、そんな皮肉も今のミスティアには届かない。 口ずさむ唄にも青年のことしか出てこない始末。暫くの間、ミスティアの色呆けが収まることはないだろう。 そんな状態で道を進んで、日が真上に差し掛かった頃、ミスティアは自分の家だった場所へ辿り着いた。 そこは大木に空けられた大きな穴で、散らかった部屋は住み心地のよさそうな所に見える。 一日しか空けていない筈の部屋を妙に懐かしく感じながら、ミスティアは躊躇いなく入り口を潜って部屋を踏みしめた。 懐かしいのは当然だ、もうここはミスティアの家ではない。 とりあえず必要なものだけを持っていくつもりだった為、ミスティアはまず妖怪が織った衣服を数着手に取っていった。 他に必要な物が思い浮かばなかったので辺りを見回すが、目に付いたのは人里から盗んだ布団くらいだ。 流石に布団を担いでいくわけにもいかない、ミスティアは諦めて軽い身の回りのものだけを集めていく。 暫くは、青年と同じ布団でいいだろう、むしろずっとそのままの方が良い。 思い浮かべながら、ミスティアはまたも表情を崩した。新婚なんてこんなものである。 その後、半刻ほどをかけて荷物の整理を終えたミスティアはすぐに家を出た。 見上げた空に浮かぶ日は既に傾き始めている。 日が暮れる前に家へ帰る為、ミスティアは足を少し速めることにした。 早く会いたい、それだけしかミスティアの中にはない。 夢中になって歩いていれば、短くない距離もあっという間に感じるのだった。 もう家はすぐ近くというところまで来ると、空はだいぶ暮れていた。 赤く染まり始めた空は優しい反面、焦燥感を煽る。 いつの間にか、ミスティアは走り出していた。 家への道を辿る、走る。躓きそうになりながらも、ミスティアは足を止めることはしない。 すぐに家が見えてきた、釜戸から昇る煙が視界に入る。 扉の前で、息を整えて。何故こんなにも自分は急いでいたのか、今更疑問に思った。 ミスティアは考える、扉を開けてまずどうしてやろうか。 とりあえず、飛びついて腰に抱きついて甘えてやろう、そう思って戸に手をかけた。 ――本当は気づいていた。 戸を開いて中を覗くと、傾いた日に照らされた部屋が赤く染まっていた。 それは目眩を覚えるほどひたすら赤く、朱く、紅く、あかく、アカク―― ――狂気を映すような紅だった。 部屋からは米を炊く匂いと、青年の匂いがした。 しかし、それを覆うほど強く、鉄のような生臭い臭いが包んでいた。 ――嗅ぎ慣れたそれはまるで餌の流す液体のようだった。 部屋に青年の姿はなかった。 ――あったのは、彼の匂いの染み付く、床に零れた紅いものだけだった。 ミスティアの住処は、紅い血で染められていた。 青年の匂いを含むそれは、間違いなく愛しい人の溢したものだと分かる。 抱えていた荷物を血溜まりの中に落として、ミスティアは一目散に走り出した。 叫びさえ上げる暇はない、考えることすら今は無用。 ミスティアがするべきことは血の匂いを辿ることだけだ、足が崩れるまで走ることだけだ。 「――嫌だ」 一つ呟いて、ミスティアは日の暮れた深い森の中へと消えていった。 ◆ 森の中に、青年の姿はあった。 居たのではない、その姿はただ姿が有るだけだ。 息など既に有るわけがない、あの透き通った声を出していた喉が綺麗に切り裂かれているのだから。 全てはどうしようもないくらいに手遅れだった。 骸を目の前にして、ミスティアは叫ぶことはなかった。泣き伏せることもなかった。 ただ、その背後に居る妖怪を見つめていた。 その身体はとても大きくて、ミスティアは見上げる形になる。 瞳の中に感情はない、ただ漠然と何故こうなったのか思考していた。 人間と妖怪は結ばれてはいけないのか。 こうも早く、幸せなど一瞬で終わらせられなければいけないことだったのか。 どこで間違えた、ミスティアはどこで間違えたのか。答えられる者はいない。 青年を手にした妖怪は不思議そうにミスティアを見つめていた。 食事を始めようというときに駆け込んできて、じっと己を見つめているのだ、不思議に思わないわけがない。 妖怪はこの森の主のようなものだった、ミスティアも一度だけ目にしたことがある。 大きな翼はミスティアの身体程はある。その妖力は翼の折れたミスティアなど足元にも及ばない。 勝ち目などないのだ。 それでもミスティアは妖怪を見上げていた。何をするわけでもなく、ただ見上げていたのだ。 「……お主は、何だ?」 「……夜雀です」 耐え切れなくなったのか、声をかけてきた妖怪に感情のない声をミスティアは返した。 妖怪はそうか、と一言呟いて思考しているようだった。 「何か、用かな?」 「はい、失礼ながら同じく鳥の妖である貴方にお願いがあって参りました」 ミスティアの口からは自然と言葉が漏れていた。 意思はなく、だた淡々と発せられる抑揚のない声は不気味な雰囲気をまとっている。 「願いとは?」 「見ての通り、私は先日鳥妖の力である翼を折られました。餌食さえままならず、この身体は衰える一方です」 「……ふむ」 「どうか、その人間の骸を譲ってはいただけませんか?」 ミスティアの申し出に、妖怪は悩んでいるようだった。 同じく鳥妖であるミスティアは主と呼ばれる自分には助ける義理がある。 だが人里を襲ってまで得た餌を手放すのも惜しい。そんなところだろう。 そして、考える素振はすぐに途絶えることになる。 ミスティアは小さく、しかし、確実に妖怪の耳に入る大きさで呟いていた。 「お願いします、お願いします……助けて、たすけて……たすけてください、その骸を譲って……タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ、タスケテ……」 ――タスケテクダサイ。 鬼気迫るような、言葉の羅列は狂ったように繰り返されていた。 妖怪はそれに呪いのようなものを感じただろう。 この願いを聞き届けなければ、自分は呪い殺されるのだとはっきりと感じ取ったのだろう。 「わ、わかった、助けてやる」 表向きだけは恐怖を隠しながら、妖怪は手に持った骸をミスティアへと差し出してきた。 その顔に、怯えが隠しきれていない。 「……ありがとう……ございます」 殺したい相手に頭を下げて惨めに礼を言いながら、ミスティアは差し出された骸を肩に抱えた。 たくましいと感じていた青年の身体はずしりと重く、その肌は硬く冷たいものになっている。 それは、翼の折れた身では辛い作業だった。 青年はミスティアよりも大きい。力を失った骸を運ぶのは小さな彼女には到底無理に思えた。 それでも、何かの意思が、意地が、理解できない感情がミスティアを動かしていく。 青年を、守れなかったこの骸を、他の何者にも触れさせたくなかった。 呆然とする妖怪を背に、一歩ずつ歩いていく。 いつの間にか空を黒雲が覆って、雨を呼んでいた。 冷たい雨が小さな身体の熱を奪う中、泥を踏みしめて森を進み続ける。 涙は流さない、恨みさえ今の彼女にはない。 ミスティアは敵を討つよりも青年の骸を守りたかった、妖怪になんて喰われてほしくなかった。 たとえ挑んでも、ミスティアにあの妖怪を殺す力はない。無残に殺されて青年を守ることもできない。 故に、ただ彼の骸を守らなければいけないと漠然とした想いだけがその身を支配していたのだ。 情けない、そんな自責の念を身に刻みながらミスティアは逃げるように進んでいく。 肩にかかる骸は雨よりも冷たかった。 ◆ 雨の中をどれだけ進んだろうか。 もはや何者の気配も感じられない場所へ辿り着いて、ついにミスティアは倒れた。 重い骸に潰されながら、必死でその身を起こす。 もっと遠くへ、妖怪がいないところへ行かなければ骸を守れない。 このまま自分が倒れれば、彼が小妖怪の餌食になってしまう。 そう強く願っても足は力を失い、立つことはなかった。 悔しくて、その頬を涙が伝う。 自分には守ることも敵を討つこともできない。骸となってしまった彼を守ることすら叶わないのだ。 自責の念に駆られながら、ミスティアは己の無力を憎み続けた。 そして、一つの考えが彼女の頭を通り抜けた。 ――守る為に、彼を■する。 誰にも犯させたくないのならば、自分が犯してしまえば良い。 まともな心であったなら、そんな考えなど否定できただろう。 しかし、ミスティアにはもうその力は残っていなかった。 だからこれは必然で、ミスティアには防ぐことはできなかったことなのかもしれない。 何も考えることができず、ミスティアはゆっくりと身を屈めて、骸の腹へ口を寄せる。 涙が止まらなかった。 何処かにある心が悲鳴をあげて、その行為を抑止しようとしても、彼女の身体は止まらない。 一口、目の前にある死肉を食む。 何も感じない、味も、感情も、全て失ったように心が狂っていくだけだ。 ――ごめんなさい。 呟きながら、愛しい人の肉を食む。その異常な行為に気が狂いそうだった。 それでも、自分以外の妖怪が彼に口を付けるなんて許せなくて。だからひたすらに肉片を飲み込んでいく。 その心が行為を拒絶して、何度も何度も嘔吐しそうになっても。 それを止める矛盾した心が確実に壊れていったとしても。 それでも、ミスティアは行為を止めようとはしなかった。 否、止めるということさえ彼女には考えられなかった。 それが彼の弔いのように、それが自分の愛だというように。 ひたすらに青年だったモノの肉を食む。 ――ごめんなさい。 謝りながら、嘔吐しようとする身体を締め付けて。 あの笑顔を想いながら、惨めに無様に泣きながら、ミスティアはその行為を続けた。 そして、行為を進める毎にミスティアの四肢は力を失っていった。 まるで呪いのように、ミスティアの身体は蝕まれていく。それでも、彼を食べるのをやめはしない。 これは呪いだ。愛した者の死肉を食んだ愚者への罰。 ミスティアは進んでソレを受け入れた。 この身にはまだ呪いが足りないと、身体の全てに毒が回るのを望むように肉を食み続ける。 呪われたこの行為が止まることはない。 いつしか目の前に何も存在しなくなった頃。ミスティアは身体中に回った呪いにその身を倒した。 仰向けに雨を浴びて、血と泥に沈みながら、ミスティアは何故か月を探している。 最後にあの月が見たかったのかもしれない。 彼と出会ったときに見た優しい月。 きっと、あの青年の笑顔と重なるだろうから。 歪な月は、未だ見つからない。 不意に、ぎこちないメロディーが月を探す意識に流れ込んできた。 擦れた声と途切れるリズム。忘れない、青年が好きだと言ってくれた歌声。 歌えばきっとあの月が見えるだろうと、姿を現してくれるだろうと。 それは淡い期待の為なのか、彼への贖罪の為なのか。 いつしかこの喉が力を失うまで、途切れかけたメロディーは続いていった。 そして、奇跡のように淡い光がミスティアを照らした。 いつの間にか雨はあがっていて、雲の切れ目から月がゆっくりと現れる。 血の流れ込んだミスティアの瞳が映す世界は紅く、歪な月さえその姿を紅く染めた。 その姿にあの青年は重ならない。 この世界は、最後の救いさえミスティアには与えてくれなかったのか。 それでも、そうあったほうがいいとミスティアは思う。 自分は罪人なのだから、こんな死に方が相応しい。 血の混じる紅い涙を一筋溢して、紅く歪な月を見上げ続けた。 ――ごめんなさい。 最後になるであろう贖罪を告げたとき、光に照らされたミスティアの身体の上に影がさした。 ミスティアは興味がない反面、やっと来たかと思うところもある。 その姿は死そのもの、名を呼ぶなら死神だ。 惜しむように月から視線を外して、死神の姿を拝もうとする。 見えたのは血で紅く染まった巫女装束。その手には血濡れの針。 意外だったのはあの憎々しい妖怪の骸がその手に握られていたことだろうか。 ――ありがとう。 自分でも驚くくらいにすんなりと、力を失ったはずの喉から声が漏れた。 名前が出てこない誰か――死神は何かを呟いた気がしたが朦朧とした意識では拾うことができない。 視界がだんだんと、紅から闇へ変わっていく。 死神が、ゆっくりとミスティアへと手を伸ばす。 その手が身体に触れたとき、ミスティアの意識は終わりを告げた。 続 ■作者からのメッセージ 深夜の森の中 不気味な暗闇を赤く照らす赤提灯がゆれる。 鳥串の屋台かと思えば、それは珍しいヤツメウナギの屋台だった。 そこには心に響くような楽しげな歌声が流れていて、その歌い手に青年は恋をした。 それから青年は酒を飲むときには必ずその屋台を利用するようになった。 いつものように飲みながら歌に聞き入って、女主人をこっそりと見上げる。 その背には、翼があった。 最初は酔いが回りすぎたのかと思った。 しかし、次第に納得する。こんな綺麗な歌声の持ち主ならば人外でもおかしくないと。 青年はその後も恋心を忍ばせて、屋台へと足を運び続けた。 ある日、嵐の後の森を青年は進んでいた。 強風のせいで帰路を辿ることに手間取って、日が沈んでから結構な時間が経っていた。 妖怪が出歩き始める前に帰る為にも、青年は進める足を速めていく。 そんな時、不意に聞きなれた歌声を耳が拾った。 少し物騒で、心底楽しげに、在るがままに歌うあの人の声。 そこには微かに痛みを含んでいるような、そんな錯覚めいたものを覚えた。 早く帰らなければ自分の身も危ない。そう思いながらも、青年の身体は歌声の方へと向っていた。 声を辿って数十分程が経った頃、青年は漸くその姿を見つける。 獣を落とす穴の中に、彼女はいた。 一度だけ聞いたことのある名前を呼んでみると、はっとしたように青年を見上げてくる。 月明かりに照らされた可愛い顔には少し泥がついていて、あちこちに擦り傷を抱えていた。 なにより、あの綺麗な翼が不自然に折れ曲がっていた。 少女は期待を浮かべていた顔を曇らせた。 妖怪である彼女はきっと青年に殺されると思ったのかもしれない。 そんな顔は、見たくなかったから。 青年は走り出した、彼女を助ける為に。 ――全ては此処から、夜雀の恋が始まる。 ◇ ハッピーエンドしか書いたことのない私の始めてのバッドエンド的なものであり、初めての長い話であり、初めての続き物です。 この後夜雀に救いが与えられるのかはまだ分かりませんが、一応続きがあります。 執筆速度が冥界の音速よりも遅いのでなんともいえませんが。 此処までお読みになってくださった皆様、そして続きを読んでやっても良いという方の為にも後続の物語も全力で書きたいと思います。 此処までお読みいただき本当にありがとうございました。 ←SSリストに戻る ←TOP |