“たいせつなひと。”
作:眼帯兎
気持ち悪い。
「これで、俺は幸運だ、もう働かなくても暮していけるんだっ!」
粗い吐息、暑苦しい汗、醜く歪んだ笑み。
欲望に塗れた、本当に気持ち悪い顔が、眼前に広がっていた。
本来なら蹴り飛ばしてやっただろう、因幡てゐとはそういう性格だ。
しかし、肩は野太い腕に硬く掴まれ、動くことさえ出来ない。
それ以前に、てゐの心身は恐怖に支配され、元より動けるわけがなかった。
「あの爺さんの兎が、幸運の白兎だったとはな。ツイてるぜ、これもてめぇのおかげかよ?」
聞き覚えのある言動。震える身の恐怖の隣、どこか冷静な意識が、これが夢あることに気がついた。
これは昔々の悪夢の話。幸運を与える兎が人間に追われていた日々のこと。
まだ幼いてゐは、こんな人間さえも恐れていたのだ。
思考の海に沈んでいた意識が、目の前の人間へと戻る。
目の前で笑っていた人間の笑みが、更にいやらしく歪んでいった。
服に手がかけられる、熱い吐息がまとわりついてくる。いやらしい笑みが、近い。
意識の外、自分を見下ろす今なら、その行為の意味も分かる。
――あぁ、本当にきもちわるい。
怯える幼い自分を眺めて、てゐは思う。
大丈夫、その人間はすぐに死ぬ。辛いのはすぐ終わる。
ほら、その人間はもう、死んでいるよ。
「汚らわしいモノを、見せないでほしいわね」
倒れた人間のすぐ後ろ、退屈そうな和服の女性が立っていた。
今でも鮮明に思い出すことのできる、草に混じって香ったその匂い。
竹林の中、妖しく揺れる美しい黒髪。その姿は、間違えようもない、てゐの主人、輝夜だった。
服も乱れたまま、幼き日のてゐは輝夜の名も知らず、ただ呆然とその姿を見上げていた。
「ねぇ、永琳。これ、飼ってもいいかしら?」
◆
「……気持ち悪い」
目覚めはやけにはっきりと、夢の余韻を明確に残していた。
見慣れた天井の煤けたそれはいつもと変わらず、夢の終わりを明確に伝えてくる。
朝の匂いが鼻腔をくすぐると同時、てゐはゆっくりと布団を押しのけて、身を起こした。
嫌な水気を残す寝間着を脱ぎ捨てながら、てゐは軽く頭を振って、夢の欠片を振り落とす。
今朝の目覚めは最悪だと感じつつ、てゐは一つ伸びをして、窓を開けた。
冷めた朝の風が、心にかかった黒雲を散らしていく。悪夢の残留を、竹の青々しい匂いが消していく。
それでも、何度か深呼吸をして、吐き出された息は、酷く濁った溜息で。
見上げた空、澄み渡ったそれは、心情とは逆のものに見えるのだった。
今日は恐らく、良い日には成り得ないだろう。
そう思いながらも、少しでも心の濁った何かを洗い流したかったのか、てゐの足は外へと向っていた。
朝の澄んだ空気をいっぱいに吸いながら、霧も薄くかかった竹林を歩んでいく。
足取りは、思いのほか軽い。心の汚れも、少しずつだが薄れていた。
軽くスッテプさえ踏むてゐの姿、他者が見たならば、幾何か疑問を覚えただろう。
薄いとはいっても霧が出ているのだ、日の光がぼやける程度には、視界も悪くなる。
常人だったならば、例外なく道を踏み外し、帰り道も分からず迷い続けただろう。
しかし、てゐは違う。ここは長年暮らした竹林なのだ、今となっては眼を閉じたって抜けられる。
そんな、見慣れた竹林だったからだろうか、混じった異変に、てゐはすぐに気づいていた。
鼻歌を終えて、足を止める。笑みを浮かべていた口元は無へと戻り、瞳は周囲を忙しなく見回している。
弱竹の葉がぶつかった、微々たる音を自慢の耳が拾った瞬間、てゐは遠目に異変を見つけた。
蠢く人影、霧のかかった竹林の中、妖怪なら自然だったろう。
「人間……か」
しかし、その姿から禍々しいものは感じられない。恐らくは、人間だった。
霧散していた筈の夢の欠片が突き刺さる。心に濁ったものが溢れてくる。
普段ならば、騙しながらも外へ導いてやっただろう。
この人間は運が悪かったのだ、幸運の兎さえ寄り付かないほどに。
「明日まで生きていられたら、気も変わってるかもしれないわ。がんばって」
弱い人間が、どうせ生きていられるはずもない。
小妖怪に集られて、数に圧し負けて貪られるのが果てだろう。
知りながらも皮肉を溢すが、てゐの顔に笑みはなかった。
ただ、苦虫を噛み潰したように、険しい瞳を人間の背に送っている。
「誰か、いるのか?」
よく通る声に、てゐの意識が引き戻される。
上げた視線の先、いつの間にか振向いていた人間の瞳を捕らえる。
どこにでもいるような、平凡な人間の青年だった。
一つ、舌打ちをする。今は、そんな気分ではなかったのだ。
それでも、人間である青年の姿に、てゐは嫌悪感を覚えることはなかった。
迷い続けていたのだろうか、汚れた身に疲労に濁った瞳は綺麗とは言い難い。
何故だろうか、そんな青年から、てゐは逃げることも忘れて見入っていた。
「兎……か?」
呟くように小さい、それでいて確かに届いたその声に、てゐはようやく我を取り戻す。
慌てて身を潜めるが、青年は既にてゐの姿を見つけている。今更隠れたところで、意味が無いように思えた。
しかし、この薄暗い竹林の中、青年の足音がこれ以上近づくことは無い。
人間がまともに進める道は存在しないのだ。
目標であったてゐが隠れてしまえば、容易く方向を見失うだろう。
予想通り、青年の足音は遠のいて、竹林の出口へと向っている。
足音が途絶えたのを確認して、背の低い弱竹が茂る道から立ち上がると同時、てゐは小さく、舌打ちを鳴らした。
心を支配していたはずの不快感は、驚きによる胸の高鳴りと、何か違った感情によって、いつの間にか掻き消されていた。
もう、会うこともないだろう。確信と共に視線を逸らすと、てゐは青年の消えた道とは逆方向に進んでいく。
胸の高鳴りは、未だに衰えることはなかった。
■
夏も終わりに近づいて、秋へと色を変えてく頃。
快適な空気が漂う昼前。朝から続いていた不機嫌を晴らすため、てゐは一人、木の上に寝そべっていた。
数刻前、出会った人間の顔が浮かぶ。
それを幾度も振り払いながら、どうせなら礼をせしめれば良かったのだと、悔いを散らす。
妙な違和感を打ち消すように、見せ掛けの悔いは続けられ、何れは睡魔に食われてしまう。
恐らくは、最初からそれが目的だったのだろう。 そのために、てゐはこうしてまどろみに身を揺らしている。
遠くからは聞き慣れた声が、途切れ途切れに響いていた。
仕事を放り出してきたからだろう、直接の上司である鈴仙がてゐを探しているのだ。
困惑と怒気が混ざったそれも、遠く小さいものとなれば、眠りを誘う響きにしかならない。
木の上など見向きもしない、愚かな上司に口を吊り上げながら、てゐはゆっくりと瞳を閉じる。
頭の中では謝罪の言葉を組み立てつつ、てゐの意識は段々と堕ちていった。
しかし、それは、渇いた音に引き戻されることになる。
確かに聞こえた音は、てゐの真下、小ぶりな枝からなったものだった。
腐っていたのだろうか、渇いた木目が裂けていく音が断続的に聞こえてくる。身を預けた枝も、目に見えて曲がっていた。
不味いなと思ったときには、もう遅い。てゐの身体は既に降下を始めていたのだ。
腐りきったそれに、終始気づかなかったことに歯噛みしつつ、重力に逆らう余裕も無く地面は近づいてくる。
骨の一本は覚悟しよう、そんなことを思った瞬間だった。
小さな痛みを残すものの、激痛と呼べるものは何も感じない。
てゐの居た木は、落ちて無事で済むような高さではなかったはずだ。
何か、衝撃を和らげるものでも無い限り、今のように怪我一つ無い状態は考えられなかっただろう。
それもそのはずである。柔らかくも無いが、地面ほどに固くはない何かを、てゐは下敷きにしていたのだ。
「……あ」
「痛いな……誰だ?」
思わず溢した声への返答は不機嫌そうに。
しかし、見下ろした身体はしっかりとてゐを抱いて、まるで助けてくれたかのようにも映った。
見覚えのある顔、数刻前に見た、おかしな人間のそれが目の前にある。
てゐの姿を見たのなら、抜け出せている筈である。それなのに、何故迷い続けているのだろうか。
疑問に思いつつ、身を起こそうとして、てゐはようやく、自分の体勢を確認した。
「――なっ!」
背に手を添えられ、もう片方の手は腿の辺りを支えている。
所謂お姫様抱っこというものだった。
それでも、それだけなら、まだ落ち着いていられただろう。
てゐの顔が朱色に染まっていくのは、それだけが原因ではない。
支えられた腿に触れる手は布越しではなく、直に当っている。
てゐが着ているのはいつものワンピースだったのだから、そこに布が無いのはおかしかったのだ。
そして、多少捲りあがっていたとしても、平気な部分にも布は無い。
外見相応の、少女らしい下着。ドロワーズと呼ばれる、本来なら日の目を見ないものが露になっている。
そして、それでも落下時の風圧は、布を捲り上げることを止めはしなかった。
膨らみかけて成長を止めてしまった、二つの母性の象徴が、白い布から微かに見え隠れしている。
もちろん、てゐは何年も生き続けた者とはいえ、人並みの羞恥心があった。
故に、いつもは狡猾なてゐとは思えない反応をしたとしても、それは頷けることだったのだ。
結果として、青年の頬には、くっきりと赤い手形が残っていた。
「お、下ろしてよ!」
「す、すまん」
赤面と共に零れた言葉に、青年は赤くなった頬をさらに朱色に染めて従う。
曖昧な距離をとって、てゐは乱れた服を整え、青年は衣服についた泥や枯葉を払い落としていた。
妙に照れているせいか、気不味い雰囲気が二人の間を支配していた。
「……大丈夫、か?」
不意に、てゐの上に影が差した。見上げれば、青年の手が頭上にある。
言葉を漏らす間もなく、手は置かれて、優しくも無ければ気持ちよくも無い、それなのに懐かしい感覚が残った。
目を合わせて、青年は白い耳を撫で摩っている。
普段であれば、払いのけるそれを、何故かてゐは振り払うことができなかった。
問いに答えることも、手を払うこともできずに、沈黙だけが流れていく。
青年の顔も、段々と気不味いものに変わっていた。
「……あっち」
「――え?」
耐え切れなくなったのはてゐが先で、主語も無い言葉と共に、一つの道を指し示した。
当然、意思も伝わらないのだから、青年は疑問の言葉を口にする。
そんな青年を、てゐは顔の朱を深めながら、睨むように目を向けた。
どうしてこうも落ち着かないのだろうか、茹ったような頭で考えても、答えは出ない。
「……出口、あっちよ」
不意打ちだったのだ、声が出ないのも当然だったのだろう。
てゐはどうにか言葉を押し出すと、示した出口とは反対の方向へと駆け出した。
後ろから聞こえた、礼のような言葉も、聞こえないふりをして。
逃げるように、いつの間にか速くなっていた鼓動よりも速く、永遠亭へと向う。
収まらない鼓動を、走ったせいにしたかったのだ。
■
その後、青年は度々竹林に現れた。
最初は助けられたということもあって、姿を見せてやった。
しかし、青年は毎日のように、迷い込んできた。
その上、何故か一度姿を見せただけでは戻らず、結局はてゐが、出口を指差してやる必要があった。
七度目となった人助け。自分でも、何故付き合っているのか分からなかった。
もしかすると、自分が迷っていることに気づいて居ないのかもしれない。
それは危険なことだった。何よりも、てゐにとって面倒極まりない。
それなら放って置けばよかったのだが、青年を見つけると同時、てゐはいつも、不機嫌そうに姿を現した。
「あんた、また来たの?」
てゐの表情は、いつもの作られたような笑みではない。
不機嫌そうなそれは、僅かに呆れを含ませてはいるが、けして面倒くさいといったものではなかった。
「いい加減にしないと、死んじゃうわよ」
言葉に対して、青年は無言だった。ただ、てゐの姿をじっと見つめ続けている。
不思議に思い、てゐは青年の前に立つと、背伸びをして眼前に手を振ってみた。
初見のときは、妖怪であるてゐを見ても動じなかった癖に、青年は驚き、半歩下がって見せた。
それが、面白い訳もなく、てゐは不機嫌そうに青年を睨んだ。
「あ、あぁ、此処でやらないといけないことが……あるんだ」
「毎日のように? 毎度迷ってるんだから、諦めなさいよ」
諦めろという言葉に、青年は曖昧に笑って、拒絶を表した。
この迷いの竹林に、そこまでしてやることがあるのだろうか。
永遠亭を探すにしても、青年の姿は健康に見える。
何度も引き返しているのを見ると、自殺志願でもない。
それならば、何か特別なものを探しているのだろうか。
例えば、光る竹や筍。
そして、幸運の素兎。
「……何か、探してるの?」
「あぁ、そんなところかな。生憎、光る竹とやらは見つからないけど」
そう言うと、青年は背負っていた籠を下ろして見せた。
そこには取れたばかりと見える、筍が並べられている。
何故だろうか、てゐはそれを見て、安堵の溜息を溢した。
幸運の素兎を探しに来た者なら、今頃てゐを捕らえようとしている筈だ。
その上、無理矢理捕まえようとするにも、てゐは人間一人に負ける気はない。
てゐ自身、安堵の意味を図りかねていた。
「毎日来ないといけない理由が、それなの?」
「そりゃあ、筍でも取らないと生活できないからね」
見たところ、青年は熟練の筍取りとは思えない。
その癖に、この竹林に入り込むなど、明らかな自殺行為に思えた。
てゐには、助けられた恩義がある。
建前と知りながらも、てゐは心の内で、その言葉を繰り返し唱えた。
自分を騙すことさえ、てゐは上手くなってきている。
「次、来るときは人参持ってきなさいよ」
「え?」
「じゃないと、出口教えてあげないからね」
朱の差した顔を背けて、てゐは消え入るように呟く。
目の前から、忍び笑いが漏れてくるのがはっきりと分かる。
当然、羞恥に染められたてゐが黙っている筈もなく、睨みつけるように視線を上げて、動きを止めた。
「ありがとな」
視界いっぱいに、青年の手が広がって、優しくてゐの頭上に置かれる。
二度目になるそれは、やはり懐かしい感覚を、てゐに与えた。
それは忘れてしまうような昔の話、それでも忘れない、昔々の日々のこと。
「――っ! わ、私はあんたなんかより年上なんだからね!」
そして、我に返ると同時に、てゐは恥ずかしそうに青年の手を払った。
軽く謝りながら、青年は少しだけ残念そうに笑って見せた。
そして、少なからず、その手を払ったことを惜しく思っていることに、てゐは気づいていた。
手を置かれ、遠くを見るように目を細めたてゐは、確かに、優しい日々のことを見つめていたのだ。
■
「最近、楽しそうね。何かあったのかしら?」
「永琳様……いえ、特に何もありませんよ」
姿見の前、己の姿に笑ってみせるという、自分らしくない場面で、声を掛けられた。
そのことに、てゐは不満を覚えた様子はない。その姿が、目上の人物、永琳だったこともあった。
自分は、一応飼われている立場なのだから、その上、長い付き合いであれば、羞恥も薄れる。
「あら、仕事をさぼって、何処かに出かけていると聞いているけど?」
「さぼってはいません、ちゃんと仕事はしてますよ」
「部下が、かしら」
「最低限のことは出来ているでしょう」
姿見に見せた笑顔よりも上等の笑顔で振り返り、悪戯っぽくてゐは言う。
永琳も、咎めることが目的だったわけでもないようで、いつも通り微笑を崩さない。
もっとも、不死である彼女が、怒った時でさえ、その微笑を絶やしたところを見るのは少ない。
そんな永琳だからこそ、てゐは注意深く言葉を選んでいた。
「意外ね、貴方はずっと人間が嫌いだと思っていたのに」
「嫌いですよ」
「そう? それじゃあ私達も嫌われたものねぇ」
「……まだ人間のつもりだったんですか? それなら例外を作らないといけませんね」
「てゐは変わらないわね、ずっと昔から」
「威厳のある飼い兎と言うのも、可愛げがないじゃないですか」
そうね、と笑みを深くした永琳を見ながら、てゐは内心冷や汗をかいた。
青年と出会ってから週を二つ程巡って、永琳は何かを知っているような口振りなのである。
しかし、てゐは知っていた。この薬師が、てゐに欺かれるほど良い性格をしていないことを。
「それと、例外ならつい最近出来たのではないかしら?」
最高の微笑みと共に零れた言葉に、てゐは顔を背け、精一杯に悪態を吐いた。
長い付き合いだけに、嫌な評価ばかりは外れようがないのである。
てゐにはただ、聞こえなかったふりをして立ち去るしかない。
約束の場所へと赴く真際、背後でクスクスと笑う天才の顔が、やけにはっきりと想像できた。
■
青年はいつも決まった時間に竹林に踏み入れた。
比較的霧の薄い、昼頃である。そして、帰るときは日の落ちる前、てゐが現れてからだ。
しかし、それも段々と変わっていった。
青年が帰路に着く頃に現れたてゐは、段々と来るのが早くなって、多少なりと青年と言葉を交わす。
今では踏み入れた頃から、青年を待つようにもなった。
(どういう心境の変化なのかしら)
見えてきた青年に手を振りかけて、てゐは思案する。
答えは無意識のうちに、自覚しているようでもあった。
「……今日はやけに早いな」
「縄張りだもん、居るのは当然でしょ……」
驚いたような顔をした後、穏やかに笑いかける青年に、てゐは告げる。
確かに、竹林はてゐの庭のようなものではあったが、一日中居るわけではない。
こうして立っているのは、青年を待っていたからなのである。
「先払い」
「なんだ、随分現れるのが早いと思ったら、腹が減っていたのか?」
「……うるさい、ばか」
そんなことを、当然知ることもない青年は、穏やかかに苦笑してみせる。
安心したような、失望したような、微妙なてゐの心情は悪態のかたちで吐き出される他なかった。
報酬の人参を受け取る。どうにも面倒な依頼を、これ一つで請け負うのは割に合わないというものだろう。
「ゆっくり食べろよ」
「……分かってるわよ」
睨むようにしながら、その瞳には僅かに期待が篭っていた。
降りてくる手が、赤い瞳に移りこんで影を落としていく。
“もう一つの報酬”を、てゐは瞳を閉じて待ち受けた。
しかし、待てどもその手が降りてくることはない。
怪しく思い、薄く目蓋を持ち上げると、残念そうに笑って、手を引っ込める姿が見えた。
「……なんで引っ込めるのよ」
「いや、嫌がってたから、止めないとなって」
嫌がって見せてから数日が経って、今更直そうと、青年は努力したようだ。
勿論、そんなものは余計なものである。
しかし、照れ隠しをした以上、強く言うこともできず、てゐは恨めしそうに手を睨む。
「……ばか」
「え?」
「別に、我慢しなくっても……いいわよ」
語尾は限りなく小さく、消え入るような声で、てゐは精一杯に訴えた。
目の前では、困惑したように、青年が文字通り手を拱いている。
段々と顔が朱色に染まっていくのを感じながら、てゐは青年に身を寄せて促がす。
ぎこちなくはあったが、ようやく、てゐは報酬を受け取った。
「また、筍なのね」
「そりゃあ、一応これで商売して食っていくんだからな」
何となく目を合わせられないまま、何となくいつもと同じことを口にした。
盗み見た青年の顔もてゐと目を合わさないように、彼方を見つめているように見える。
気まずいのに、不思議と居心地は悪くない沈黙が、辺りを包んでいく。
「はは、なんだか妙に照れちまったな」
「……馬鹿じゃないの?」
苦笑する青年に言い放った言葉に、謀るような演技は無い。
もはや、てゐは青年の前で猫を被ることはなかった。
出会いからして、素の姿を見られているのだ。今更飾る必要も無いだろう。
それでも、何故だろうか。そんな言い訳じみた理由以外にも何かがあるように、てゐは心の奥で感じていた。
「あんたって、やっぱり変な人間よね」
「そうかな」
「そうよ、普通の人間は、妖怪に笑ったりしないもの」
変わらず、青年は微笑み、てゐはそれを前に、目を伏せた。
人間の隣にいるてゐも、傍から見れば変な妖怪だったろう。
本当に微々たるものだったが、てゐはこの立ち位置を、居心地良く感じていた。
自覚がある分、気恥ずかしくなり、思わず進む足も速くなる。
見るものがいなくなったてゐの表情は、確かに笑っていた。
「それにしても、妖怪が出ると聞いたんだけどな」
「そりゃあそうよ、幸運を与える私が着いているんだから」
言ってから、溢してしまった自分の言葉に驚いた。
人間相手に、てゐがこの能力を公言するとは、今までになかったのだ。
それでも、この青年にだったら大丈夫だと、てゐは信じていた。
信頼故に、零れてしまった言葉だったのだ。
言わなければ、上手くいくはずだった。
「……やっぱり、てゐが幸運の素兎だったんだな」
「――え?」
背後から聞こえた声に振り返る。
懐かしい名前が聞こえたような気がして、本当は振り返りたくなどなかったのだ。
変わらない微笑を浮かべている青年に、何故かてゐは言い表せない違和感を覚えている。
そんなてゐを無視するように、青年は顔を伏せると、呟くように告げた。
聞きたくない、言葉だった。
「俺、幸運の素兎を探してたんだ、ずっと……」
心に刃物を突き立てられたような、異物感に吐き気を催した。
記憶の奥底にある傷口が、疼く。
――ツイてるぜ、これもてめぇのおかげかよ?
昔々の、醜い人間の声が頭の中に鳴り響いて、心に皹を入れていく。
吐きそうだった。冷たいものが喉元を競り上がってくるような感覚と共に、てゐの顔が青く染まっていく。
「それでも、俺は……てゐ?」
「やああぁぁっ!」
向けられた手を払払い除けて、てゐは半狂乱に叫んだ。
記憶の渦が重なって、幼き日のように泣き叫んでいた。
「どうした……?」
「来ないで!」
「話を」
「信じていたのに、優しい奴だって……思っていたのに!」
涙で埋もれた瞳で睨みながら、てゐはただ悔しくて、叫んだ。
「捕まるもんか……私は……」
青年はまだ何かを言おうとしていたが、てゐは聞く気も無かった。
文字通り脱兎の如く、竹林を走っていく。人間如きに、追いつける速度ではない。
涙が止らなかった。裏切られることなど、何度も経験していたというのに。
裏切ることも、てゐは何度も経験していたというのに。
こんなにも悲しく感じたことはなかった。てゐは、青年のことを――
「好きだったのに、信じてたのに……」
冷たい涙が止め処なく溢れて、後ろへと流れていく。
てゐの顔は、悲しみと悔やみでぐちゃぐちゃだった。
青年の声も、もう聞こえない。それでも、夕日に照らされて、朱に染まった竹林を走り続けた。
止ってしまったら、立ち上がることも出来なくなってしまうから。
てゐは走り続ける。まるで、過去からも逃げようとするように。
■
色あせた、セピア色の世界にてゐは居た。
幸運の素兎として、追われていた日の幼い姿で、座り込んでいる。
足からは、ぼやけた赤色の血が流れていた。幸い、痛みは感じない。
「大丈夫かね?」
ぼやけた声がして、てゐの上に影が差す。
ゆっくりと顔を上げてみると、そこには人間が一人、立っていた。
その人間は、どこか青年の面影を持つ、狩人の老人だった。
温かな、固い手が優しくてゐの頭を撫でる。
それがどうにも懐かしくて、戻らないことが悲しくて。
幼い心と共に、てゐは涙を流していた。
老人に背負われて、てゐは小屋の中、毛布を被せられていた。
目の前には湯気の昇るスープが置かれている。
「……食べないのかね、お腹は空いていないのか?」
「なんで……?」
虚ろな目で聞いてみても、老人はただ不思議そうに首をかしげた。
言葉を続けようとした矢先、てゐの腹部から小さな音が鳴る。
恥ずかしくて目を伏せると、老人は小さく笑いを溢して、食べなさいと優しく囁いた。
一口、怪しみながらもスープを含み、そこからは勢い良く平らげて行った。
味など感じないのに、ただ暖かいことだけを感じられて、また涙が溢れそうになる。
気づくと、老人の手は再びてゐの頭に乗せられていて、優しく、撫でてくれていた。
涙は、止らなかった。
それから、てゐは老人の小屋で生活していた。
料理を教わって、一緒に食事をして、寒い夜はこっそりと、布団の中に潜り込んで。
老人はいつも笑っていた、てゐにいろんなことを教えてくれた。
てゐは、老人のことが大好きだった。
目を覆いたくなるような日。
セピア色の世界の終わりの日。
いつものように、てゐは食事の用意をして、大好きな人が帰ってくるのを待っていた。
その日、老人は三日程家を空けていて、てゐは今か今かと、扉を見つめては料理の様子を気にしている。
扉が開かれる、迎える為に作っていた、最高の笑顔は凍りついたまま、砕けてしまった。
いつものように微笑む老人は、色あせた赤に染まっていた。
「早く、逃げなさい」
「おじいちゃん……なんで!」
血の流れる傷口は、妖怪のものではなかった。
戸から見える松明の光、その下に、厭らしい笑みを浮かべた人間がいる。
「お前に会えて、儂は幸せだった」
「あ……うぁ……」
「泣かないでおくれ、儂にはもう、お前を撫でてあげることはできないのだから」
「おじい……ちゃん」
大きな手が、てゐを一度だけ撫でて、地に落ちた。
その手を、てゐは懸命に握って、泣き止むように瞳を固く閉じる。
「早く、逃……生きて、おくれ……」
セピア色の世界が、幸せだった世界が、終わった。
てゐは駆け出す。朱に染まった、見覚えのある景色を逃げていく。
涙は溢さない、声など上げてやらない。
まるで、あの青年から逃げたときのように。
■
懐かしい夢だった。原因を、てゐは痛いほどに分かっている。
赤く腫れた目を、再び濡らしながら、てゐは膝を抱えた。
人間は、やはり幸運の素兎を捕まえたがっているのだ。
その中に、青年が含まれていることが、どうしようもなく悔しかった。
もう、悪態を吐くことさえできない。
「……てゐ? いるかしら」
涙が二つ、布団の上に染みを作ると同時に、声は掛けられた。
声の主が踏み込んでくるのに気づきながら、てゐはゆっくりと涙を拭う。
そして、得意の笑顔も作らないまま、目を向けた。
「酷い顔をしているわね、鈴仙が見たら笑うかしら、きっと焦るわね」
答える気にはなれず、てゐはただ首を縦に振ることしか出来なかった。
永琳は気にも留めることなく、軽口を続けている。
妙に何かを言われるよりは、気が楽なのは確かだった。
仲の良い上司、鈴仙ではなくて、てゐは少なからず感謝している。
それでも、誰も来ないに越したことはなかったのだが。
「ところでね、偶然散歩に出かけたら、不思議なことに手紙が落ちていたのよ」
「――え?」
「広場の真ん中に落ちてるから気になって拾ってみたら、知り合いの名前が書いてあったのよ」
そして、それに気づかない永琳でもない。何か用事があってのことだとはすぐに分かった。
永琳はクスクスと笑いながら、手紙を一つ、てゐの布団の上に落とした。
呆然と受け取ったてゐに微笑み、永琳は足早に立ち去る。
「……偶然、ね」
ほとんど自分の研究室に篭り、用がなければ外に出ない永琳が、散歩に行くとは思えない。
だとしたら、最初から知られていたのだろう。最悪、覗かれていたと考えるのが妥当だ。
思いながらも、意識は手紙の方ばかりに向いていた。
こんなものを置いていくのは、あの青年くらいしか考えられないだろう。
てゐは無造作に、手紙の封を開いた。
てゐ……幸運の素兎様へ。
何と言っていいか分からないけど、騙すようなことをして、ごめん。
俺は、前に言ったように、幸運の素兎を探していた。
それは、お前を捕まえる為、と言うことだ。
俺には苦労させてきた母親がいる。せめてもの親孝行に、幸福を与えたかった。
それも、言い訳にならないことは分かっている。
でも、俺はお前を一目見て、捕まえることなんか出来なくなってしまった。
素兎と知りながらも、一緒に居たかった。
俺は、お前が好きだ。
出来るなら、もう一度あの場所で。
……ごめん。
短い文章だった。泣きはらした目でも、大した時間もかからず読み終えた。
そして、その大したこともない時間のうちに、てゐは青年の気持ちを知った。
今なら分かった、与えた幸運に左右されず、てゐが出て行くまで竹林から出られなかった青年は、てゐにもう一度出会うことを、幸運として使ってしまっていたのだ。
「……ばか」
そこで、嫌な音が聞こえてきた。
低音で、人間には聞き取りにくいそれは、小妖怪が仲間を集める泣き声。
襖から覗ける景色は、夕焼けを黒が侵食していく景色だった。
随分と、眠っていたことになる。てゐは服の乱れも整えないまま、表へと飛び出した。
「一人じゃここから出れないくせに……!」
誰に宛てたわけでもない呟きが、妖しげに揺れる竹林に吸い込まれていく。
匂いを辿っていく、青年は確かに、この竹林に居る。
いつもと同じ場所だ、待ち続けていてくれたのだ。
この竹林は知り尽くしていた。言うなれば、ここはてゐの庭のようなものなのだ。
段々と近づく青年の匂いに、てゐはどこか期待のようなものを抱いていた。
この先に、一日中竹林を歩いて、ぼろぼろになった青年が居ることを。
お腹を空かせながらも、自分に微笑んでくれることを。
それでも、その心を焦燥感が支配していたのは、気づいていたことがあったからだ。
見慣れた獣道、嗅ぎ慣れた青々しい踏み潰された竹葉の香り。
それに混ざり、近づいていく青年の匂い。
鉄のような、生臭い血の香り。
だから、幼竹を掻き分けて目にした光景にも、どこか予想はついていたのだ。
叫ぶことすらしない、息を飲むことすらしない。
全速力だった先の走りより倍近く鋭く、速く、てゐは駆け出していた。
見慣れた青年の身体は真っ赤に染まっていた。
血の渇いた小刀を握った手はだらりと下がり、瞳は意識の消えかけた、濁ったものに変わっている。
その身には所々、蛇のような小妖怪が群がっていた。
「離れろぉっ!」
視界を滲ませる涙が邪魔で、叫びをあげる心が邪魔で。
全てを塗りつぶしながら、小さな雑魚を潰していく。
期待はとうに消えていた。それでも身体は止らなかった。
小妖怪を殺して、投げ捨てる度に見えてくる傷口は、逃れられない死を知らせるだけだった。
もう、助かることはないだろう。
咽返るような血の匂いが昇る青年は、腹に穴を空けられ、内蔵を食い散らかされていた。
出鱈目に放った妖力に潰されてしまうような雑魚にさえ、こうして殺されてしまう存在。
強者と餌の入り混じることのない、役割で引かれた境界線。
これが、人間と妖怪の関係。てゐと青年の、本来あるべき姿だった。
「……ばか」
荒い呼吸を続けて、なんとか生にしがみつく青年を前に、言いたかった言葉は上手く出なかった。
「分かったでしょう、妖怪なんか好きになっちゃいけないのよ。……こうやって、殺されちゃうのよ」
「……てゐ」
「好きになんてなっちゃいけないのよ、人間なんか……」
涙に埋もれた視界はもう、何も映さない。ただぼやけた紅色があるだけだ。
それでも、はっきりと手と分かるものが伸びてくる。
ぼろぼろになってまで、頬を伝う指先は、血を失い、もう以前の暖かさはなかった。
「それでも、好き……なんだ」
ひゅうひゅうと、奇妙な音を混ぜた言葉が漏れる。
聞くに堪えなくて、てゐその唇を自分のもので塞いでやった。
深く繋がっていくその接吻は、初めての感触に血の味を混ぜていく。
それでも、冷たい青年の唇に、どうにか自分の熱を与えたくて、何度も何度も唇を重ねた。
冷え切った肉とは違って、熱いほどの吐息が漏れてくるのを感じる。
愛しき命を、確かに感じた。
「絶対に、死なせてなんてやらない……」
身を離し、子供の我侭のような言葉を溢して、てゐは心に決めた。
永遠亭ならば、不死の薬師の居るあそこなら、きっと助かるのだと。
都合主義を信じられない、無駄に賢くなった心を捻じ伏せて、立ち上がる。
泣きながら、気づいたのだ。
てゐも、この人間が好きだった。
それだけで、足掻く理由は行動原理を埋め尽くす。
「凄い薬師がいるの、絶対死なないから」
「……あぁ」
青年を背負って、黄昏時の竹林を進んでいく。
知る限り最短の道を選んではいるが、大人の身体を背負う身の速度は一人に比べて遅すぎる。
焦燥感を打ち消すように声をあげては、青年の声に安堵を漏らす。
目に見えて日は傾いていく。段々と光も消えていく。
紅色の光が落ちていくと同時に、青年のそれも消えていくような気がして、焦りが止らなかった。
「私は幸運の兎なんだから。絶対に、死なせたりしないから」
てゐの能力は、人間だけを幸せにするもの。
そんなものに縋りながら、背に置いた、愛する者を支えていく。
手のひらからこぼれないように、必死になって繋ぎとめておくように。
「……お前が傍にいてくれるだけで、幸せだったよ」
いつしか、自分のすぐ先さえよく見えなくなった頃。背中から、そんな言葉が漏れた。
嫌だ、と声にもならない叫びが吐かれる。
信じたくなかった。もうすぐそこに永遠亭はあるのだ。
冷たくなりすぎた身体が、段々と凍ったように固くなっていく。
不意に、背に乗せた身体が、少しばかり軽くなったような気がした。
人間は死んだ。微笑みながら、安らかとは言えない背の上で死に絶えた。
いかに天才とはいえ、死ねない薬は作れても、甦る薬は作れまい。
永遠亭の門が見えていた。それでも、間に合わなかった。
言葉は何も出ない。涙さえ、もう乾いている。その代わりとでも言うのか、絶望だけが流れ出てきた。
倒れこむことも許されず、魂の分だけ軽くなり、絶望の分だけ重くなった骸を背負って進む。
永遠亭の灯りが段々と近づいてくる。眩しく照らしてくるそれは、呆然とした意識を照らしてはくれない。
戸を開き、親しい兎の笑顔を虚ろに見上げて、てゐは倒れこむ。
聞き覚えのある声が聞こえたが、磨耗した意識には届かない。
そして、てゐはゆっくりと瞳を閉じると、愛しき者の骸と共に、永遠の亭にて眠りについたのだった。
■
真っ白な世界に、てゐはただ一人、身を置いていた。
匂いも無ければ、目ぼしい形もない永遠に続いているかのような白。
そんな世界で、白濁とした意識は自然と、此処は夢の中だと教えてくれた。
――てゐ。
故に、聞き覚えのあるその声に驚きはしない。
ゆっくりと振り返ると、そこにはやけに懐かしく感じる姿があった。
「あぁ、本当に足がないね。夢だからかな?」
気持ちは随分軽く、微笑み皮肉を言うこともなんとかできた。
青年も柔らかい微笑を返す。幽霊さえ存在する幻想郷なら、このようなことも起こりうるのだろう。
無言で、てゐは青年を抱きしめた。強く抱き返される感触が確かに残る。
涙は、溢さない。
「好きだったんだよ、私」
――あぁ。
「ずっと、一緒に居たかったんだよ?」
――ごめん。
「ごめんね、私がもっと早く貴方を見つけていたら、助けられたのに」
――てゐ。
「妖怪と人間は、一緒に居ちゃ駄目なのかな……」
――俺は、お前と会えて幸せだったよ。
「おじいちゃんと同じこと言ってる……変なの」
――?
「なんでもないわ、なんでも……」
笑って、てゐは背を向けた。
零れそうだった涙を、青年に見られないように擦る。
――てゐ、一つだけ頼みがあるんだ。
「うん、お母さんのことでしょ。手紙読んだし」
――あ、あれは。
「大丈夫、任せておきなさい」
――……ありがとう。
背を向けたまま、どうにか笑って、てゐは答える。青年も、小さく笑みを溢していた。
静寂が降りると、辺りは白い世界と相成って、完全な無音となる。
伝えたいことは、またも言葉にならない。
――好きだったよ、誰よりも、お前が。
だから、代わりに伝えられたことがとても悔しかった。
真っ白な世界が、大好きな人との日々が、終わる。
撫でられた頭の感触と、微かに触れた唇の温もりを、やけにはっきりと残しながら。
布団の中、見慣れた天井が広がっていた。
身を起こし、目を閉じれば夢の記憶がはっきりと思い浮かぶ。
「……ばか」
呟いて、てゐは強く、布団を抱き潰した。
流す筈の涙は、既に拭われている。
■
「てゐ様、私達が運びましょうか?」
「いいわ、私の荷物だし、お供も要らない」
いつものてゐとは思えない言動に、妖怪兎たちは顔を見合わせていた。
其れを横目に荷物を引いて、てゐは竹林を抜けていく。
青年が現れた方向から、場所は何となく予想がついていた。臭いを辿ることで、それは確信に変わる。
目の前には、人里から少し離れた一般的な小屋がある。
幸い、辺りに人影はない。此処まで引いてきた荷台を下ろし、蔵のような場所に詰めていく。
夢だったかもしれない、それでも、てゐは近い内にこうしていたかもしれない。
「あとは、あそこだけ……」
積荷を全て下ろし、てゐの見つめる先には小屋の扉があった。
微かだが、人がいる気配がする。それでも、てゐは躊躇なく戸をあけた。
人間の生活臭と木の匂いが外へと溢れ出す。
そして、覗き込んだ先、風が届かない場所に置かれたベッドに、一人の老婆が寝入っていた。
無言で、足を進める。気配は消さないままで、老婆の枕元までやってきた。
「とうとう、お迎えかえ?」
掠れた声と共に、薄く開かれた瞳が、てゐを見上げていた。
これまでに受けた中で、一番痛い視線だった。てゐには、謝ることさえ許されない。
「息子も居なくなった私だ、迎えなら、誰でも歓迎しよう」
「いいえ、貴方には生きてもらいます」
感情を押し殺したような、抑揚のない声が出た。
老婆は不思議そうに、薄く開いた目を開いていく。
「貴方の息子は、貴方を助ける為に因幡の兎の贄となった。契約に従い、貴方に幸福を与えよう」
「な、何を、言ってるんだい」
「悪しきは退け、善きを送り、幸福なる日々を、彼の命の量だけ与えよう」
「嘘だ……あの子が、そんな!」
嘆くような声に、てゐは顔色を変えようとしない。
狙い済ましたように用意された、永琳の水薬を、無理矢理にでも流し込んでいく。
老婆の顔色は、咳き込みながらも良くなってきている。
それも、すぐに嘆きの色に染め上げられ、後は泣き声が上がるだけだった。
「何か起これば兎に言いつけよ」
言葉を残して、てゐは小屋の戸をあけた。
太陽が暮れかけた、ぼやけた乳白色の世界が広がっている。
てゐは、この時間帯が嫌いだった。懐かしくて、嫌でも何かを思い出させるから。
竹林へと進む中、背後からは絶えず老婆の鳴き声が響いてきた。
「……ぅ……ひぅ……」
暮れかけた、セピア色の世界が滲んでいく。
てゐから、ようやく涙が流れてくる。
やり遂げたから、意地を張るのもやめて、てゐは雫を溢し続けた。
「わぁぁあああっ、ああぁぁぁああんっ!」
綺麗な顔をくしゃくしゃにして、零れる涙を拭いもしないで。
全ての憤りを、全ての恐怖を、全ての憎しみを、落としていくように。
声を押し殺すこともなく、四度目となった涙で滲む道を歩いていく。
昔々、人間から逃げた、あの日のように。
ただ一つ違うとしたら、押し殺すこともなく泣き叫んでいることだろうか。
それでいい筈だった。悲しいことがあったのだから、泣けばいいのだ。
大切な人が居なくなったなら、我慢なんてしていてはいけないのだ。
てゐは泣きながら、心の中の濁った何かが、落ちていくような気がしていた。
◆
迷いの竹林と呼ばれる場所には、少数だが人間が訪れる。
そして、その人間が助かることは少ない。
成長の早い竹はすぐに景色を変え、霧も出ることから、簡単に方向を見失ってしまうのだ。
それでも、妖怪兎の少女を目にしたら、無事に抜け出すことができるという。
「で、出れた……おらは、生きてるのか?」
一人の人間が、助かった命に涙しているのを見ながら、つまらなそうにてゐは息を吐いた。
最近、迷いの竹林から迷いの文字が取れようとしている。
噂では、薬屋である永遠亭が、使いの兎を使って無事に届けてくれるのだそうだ。
そのことからか、病気を患っているわけでもない人間が、少なからず踏み込んでくることがある。
てゐはそんな人間は、三日ほど放っておいてから助けるようにしていた。
そして、先の人間も、その類である。
「懲りたら、もう来なくなるでしょ」
もう一度溜息を吐き、てゐは出口から背を向ける。
向う先は、てゐがいつも立ち寄る、竹の拓けたとある広場だった。
その中心に、墓石のようなものが一つ立っている。
「そんなに筍が好きなら、御供えは全部筍なんだから……ばか」
まるで死者への嫌がらせのように、筍を一つ転がしてあるそれに、てゐは語りかける。
目は元から赤いが、泣き腫らしたような痕は、もうなかった。
ただ、遠い景色を見るようにして、てゐは墓石を見つめ続けている。
「あんたのせいで、人間が嫌いじゃなくなっちゃったから」
言葉は、ようやくつっかえなく出てくるようになった。
青年の前で出なかったことが、なんとも悔しく思える。
「あんたのこと、好きになっちゃったんだから」
浮かべた笑顔に、悲壮なものは感じられなかった。
なんでも、未練のある人間は転生できないそうなのだ。
「忘れないからね、私。そうしたら、いくらか未練に思ってくれるでしょう?」
悪戯っぽく笑みを変えて、てゐは笑った。
そっと、風が吹き抜けていく。
風は白い耳を揺らして、まるで撫でてもらったときのように心地いい。
目を閉じて、てゐは暫く風を感じていた。
絶対に、忘れてやるもんかと、てゐは心の中で言い放ってやる。
「……ばか」
その言葉に、たいせつなひとが困ったように笑った気がしていた。
了
■作者からのメッセージ
大切な人の手は、しっかりと掴んでおきましょう。
自然に離れていくものだから、握りたくなった時にはもうありません。
今のうちにしっかりと、大切なものを感じていてください。
それでこそ、失った後にも笑えるというものです。
書いている途中で何度か挫けそうになり、プチのほうに色々と変なものを落としました、笑って忘れてください。
それでは、このような拙作にお付き合いくださった方には多大な感謝を。
ありがとうございました。
■私と同じく、都合主義の甘えが欲しい方へ。 ■別オチ
短時間で、望まれたものとは違うかもしれませんが、甘えは確かに置いてあります。
←SSリストに戻る
←TOP
|