“しきがみにたいせつなこと。”
作:眼帯兎
その日は朝から様子がおかしかった。
八雲家の朝は正しく早い。それは八雲の主である紫様を除くものではあるが。
式であり、私の主である藍様の存在が不精を許すことはない。
夢の余韻に縋る意識をどうにか引き剥がして、駄目押しとなった主の声に目を開ける。
ここまで来ればあとは容易で、私はようやく暖かな布団の呪縛から抜け出したのだった。
秋も終わりを迎えようとする早朝。日が出ているとはいえ、寝起きの身には冷めすぎている。
身震いを一つ残して、私は主と暖気の待つ居間へと向う。
寒気の強まる縁側を歩みながら、紅葉を脱ぎ捨てた庭木を横目に溜息を吐く。
吐かれた息は白く染まって、嫌でも辛い冬の足音を知らせた。
「橙、廊下は走るなと言っているだろう?」
おはようの後、優しい笑顔を崩した藍様は眉を顰めて言った。
もちろん、足早に通ったとはいえ、音を立てるように走った覚えはない。
無意識の内に走っていたのだろうか。
納得はいかないまま、それでも主の言葉に嘘はないだろうと思い直して頭を下げる。
同時に、藍様は笑顔を戻して、いつもと同じ優しい声で「寒いな」と溢した。
朝食は毎朝決まった時間に食卓へと並べられる。
食器は三人分並べられるが、ほとんどの場合が私と藍様の二人で食べていた。
藍様の主である紫様は一日の大半を寝ているため、朝食に顔を合わせることは稀だ。
しかし、時折気紛れに現れるものだから、毎朝無人の席にも食事は並ぶ。
手の付けられることの少ないそれは、藍様の昼食に宛がわれることが多かった。
「美味しいわねぇ」
だからだろうか、紫様が食卓に座っていることに違和感を覚えてしまう。
それでも、紫様の居る朝は藍様も嬉しそうなので好きだった。
並べられた食事から暖かな湯気が昇る。
味噌と魚と米の匂いが、朝のお腹を鳴かせる。
「いただきます――」
――パキンッ!
逸る気持ちと共にあげた声に、渇いた音が混じる。
違和感を覚えて手元を見ると、朱の混じった食事があった。
「不吉だな……」
むず痒いような僅かな痛みが傷を見つけた後にやってくる。
藍様は慌てて傷に布を当てると、血の混じった米を洗っていた。
恐らくは庭の小鳥にでも与えるのだろう。思いながら、ふと紫様を見る。
目を細めて私の傷口を見つめていた。
思わず頭を下げてごめんなさいと言おうとするが、声にはならない。
「紫様、お騒がせいたしました」
私が黙り込んでしまうと、後ろから新しい茶碗を持ってきた藍様が言う。
情けない。私は、自分で謝罪も出来ないような存在なのだ。
気落ちして目を伏せると、紫様はまた興味なさ気に薄く笑って食事を再開した。
恐らくは、気にするほどの存在ではないということなのだろう。
私は未だに、紫様から何かを言われたことはなかった。
◆
「ごはんだよー」
食事を済ませた私は、湖から少し離れた森の開けた広場に来ていた。
集めてきた獲物を抱えて叫ぶと同時、十数匹の猫が顔を出す。
「ちゃんと並んでね」
言ってはみても、今までに言うことを聞いてくれたことはない。
そして今日も、猫達は己のやりたいように集まり、獲物へと群がっていた。
今朝のこともあってか、その光景を前に深い溜息が喉元まで上がってくる。
それを溢さぬように、どうにか飲み込んで、猫達がエサを貪るのを見つめた。
ただ一匹とて、私を気にする猫は居ない。その程度の存在なのだ。
少しでも目を向けるのは、いつものように敵意を向けてくるからだの大きな三毛模様の猫だけ。
私がミケさんと呼んでいるその猫が顔を出すと、周りの猫達は揃って道を開ける。
私には出来ないそれを容易く成して、からかうように目を向けてきた。
その瞳は興味の無いようで、下らぬものを見るようで。
どうしても、今朝の情けない情景が浮かんできて。
私は一度深呼吸をして手を掲げる。目を見開く。
「私は、役立たずのままじゃ駄目なんだ」
最近、藍様は溜息が多くなった。それはきっと私が不甲斐無いせいなのだ。
故に私は意を決するように呟いて、ミケさんの前に手を向けて命令をする。
「言うことを聞きなさい――」
ミケさんの目が変わる。からかうようなそれが鋭いものになる。
隠されていた爪が現れて、唸る声が響いていく。
自分よりも何倍も小さいミケさんの瞳に、怯える自分が心の中にはいた。
それを見抜いたかのように、ミケさんが鋭い動きで飛び掛ってくる。
牙が手の甲へと刺さり、怯んだ私は尻餅を着く形になった。
情けない、普通の猫にさえ怯える自分が、式を使うことなど出来るわけがないのだ。
「……橙、大丈夫か?」
涙が溢れそうになった瞳を天へと向けていると、聞きなれた優しい声が聞こえた。
大好きなそれは、今私が一番聞きたくない声だった。
涙を拭って目を向ける。それと同時に心に真っ黒なカーテンが下りたように暗い気持ちとなった。
目にしたのは主の落胆を含んだ失望の眼差し、溜息、取り繕うように作られた優しい笑顔。
それが止めだった。私の心が音を立てて折れてしまった。
目の前で藍様が何かを問うように語り掛けてくる。
それでも、何故か耳には届かなかった。何故、私は此処に居るのかも解らなかった。
思考がくるくると巡る。何も解らない、何がしたかったのかがわからない。
ただ、自分は目の前の人を失望させて、もう此処には居てはいけないという気持ちだけがあった。
自分の口が何かを叫ぶが聞き取れやしない。世界から音が無くなったかのような感覚だった。
意識が全てを拒絶している。私は走り出していたけど、何処に行くつもりなのかも解らない。
後ろから何かが聞こえたような気もしたけど、もう思い出せやしない。
ただ、日の暮れかけた暗い森の中へと進んでいく。
もう、何も見たくはなかった。
◆
十数年ほどを生きて、いつしか尻尾が一つばかり増えて。
人間が話している言葉が話せるようになって、身体の形が大きく変わって。
姿が違う私は行く宛てもなくて、ただ呆然と暗い空を見上げていた。
暗かった空を月が横切って沈んでから暫くした頃だろうか。
急に目の前に切れ目が走って、中から異様な人影が現れた。
「あら、猫ね……おかしなおかしな猫だわ。そうね、扱いは難しいけれど、藍の式に丁度良いかもしれない」
最初は興味なさ気だったが、次第に目を細めて笑みを深めながら人影は言葉を続けた。
初めて見たその姿に、私は恐怖だけを感じた。
何か底知れぬものを感じて、興味の無いことが完全に感じられて。
きっと殺されてしまうと目を閉じると、人影も切れ目も消えてしまっていた。
そして、暫くすると声が聞こえた。
猫の頃に怯えていた妖怪のものだと思った。
隠れようとは思わなかった。ただ、興味を引かれる声色だったのだ。
そして、その姿を見たとき、背筋に何かが走ったのだ。
それは恐怖とは違う。なにか尊敬のような、感じたことの無い感情だった。
優しい瞳に見つめられる。綺麗な手のひらが差し伸べられる。
「私に従え」
私は躊躇いも無く、その手を掴んだ。
◆
暗い森の中、獣道を走っていた。
不気味に揺れる木々を掻き分けて進む度に、小さな傷が増えていく。
自慢の黒い尻尾は汚れ、ピンと立った耳は血の赤が黒を染めようとしている。
それでも、熱に霞みかかった意識は気にも留めようとしない。
頬には、温かな液体が伝っていた。
血だと思っていたそれは舌の上に塩気を残し、涙であることを伝えてくる。
私は泣いていた。
傷が痛むからではないだろう。そう、何かとても悲しいことがあったのだ。
しかし、思い出そうとしたところで、熱にやられた意識が思い出させまいとしているかのようにその事象を隠してしまう。
どれだけ走り続けただろうか、薄暗い森では距離も時間も分かったものではない。
まるで自分の足ではないかのように早く、強く森を突き抜けていく。
限界などとうに超えていた足が木の根に捉えられて、私はようやく、速度零の世界へと戻ってきた。
腐った落ち葉と泥の中に沈んだ身体を起こすことなく、私は泣き続ける。
痛かった、悲しかった、こんなとき、私は必ず誰かの名前を呼んでいた筈だ。
しかし、流した涙と共に失くしてしまったかのように、その名前が出てこない。
優しくて憧れていた誰か。今はもう、姿さえ思い浮かべることは出来ない。
所在無く見上げた空には、涙で歪んだ満月があった。
十五夜なのに歪なそれは、まるで私を嗤っているように見える。
冷たい空気が漂う森の中。私は、独りだった。
「……おい」
涙で滲んだ意識に声が響く。
驚く気力も無くて、無造作に目を向けると、そこには犬のような姿の妖怪が居た。
普通の犬とは違う大きな体躯は山犬と呼ばれる妖怪だった。
「どうしたんだ? ボロボロだな、道に迷ったなら案内するぜ」
口を大きく歪めて笑う山犬を見ながら思い出す。
山の中、食料と引き換えに山の中を案内する妖怪、それが山犬だ。
しかし、私には案内などいらない。向う場所など、最初からないのだから。
「案内は、いりません」
「じゃあどうした?」
呟いて、目を伏せた。熱はまだ冷めずに意識を朦朧とさせている。
視界も涙で滲んでいるのか、目を回しているのか解らない。
そんな中、山犬の声だけがはっきりと響いていた。
――そうか、式神ねぇ。
簡単だぜ? 従わせることなんて。俺の周りを見ろよ、犬が沢山いやがるだろ?
殺したのさ、こいつらの中でも一番強い奴をさ。後は簡単だ。
お前の主だって、強い力を持っているだろう、ようは恐怖を与えればいいのさ。
お前、猫なんかよりよっぽど強いだろ?
大丈夫さ、簡単にできるよ。
殺してしまえばいい。
自分が何を喋っているのかは解らなかったが、山犬の言葉だけは理解できた。
山犬は楽しそうに笑っていた、だから、私も口を歪めてみる。
何故だろうか、一瞬山犬の顔が怯えているかのように歪んだ。
「ありがとう」
告げて、背を向ける。やり方は頭の中をぐるぐる回っているから忘れる事は無いだろう。
従わせる為にすること、その方法がぐるぐる回って発熱している。
あぁ、気持ち悪いのに何て愉快なのだろう。
さぁ、猫達が集まるあの場所に行こうか。
◆
「藍、あの子は何処に居るの?」
橙が走り去った後、私はいつものように私事を片付けていた。
そこへ、いつもと違う声色の紫様が問う。あの子とは間違いなく橙のことだろう。
いつもは私に任せていると気にも留めていなかったのに、今更ながらに驚き戸惑う。
「……居ないのね。藍、貴方は何をしているのかしら?」
「――は?」
「あの子、力が目覚めかけているわ。朝からおかしいとは思わなかったの?」
今、紫様は何と言ったのだろうか。
一瞬、私の意識は思考を止め、言葉の意味を噛み砕きながら白濁していく。
「気づいていなかったのね、式を使役する者としては落第点よ」
「申し訳……ありません」
「謝られても困るの。解っていたでしょう? 貴方があの子を拾ったときに」
そう、気づいていなければいけなかった。あの子の持つ可能性に気づいていたのだから。
八雲の名を戴いた式に相応しいといわれた橙はただの妖怪とは違う。
その潜在能力は、大妖となることを約束されたようなものだった。
しかし、今はまだ幼く力も弱い。少々特殊な晩成型の妖怪が橙だ。
それ故に、普通に扱う式とは違い、ちゃんと導いてあげなければいけなかった。
「それを過ちで失うのは少しばかり勿体無いわ。わかるかしら、これは主人が式の尻拭いをしているのよ」
畜生のようね、と紫様は微笑を浮べて溢した。
優しい声色のそれが、私にこの上ない無力と後悔を与えてくれる。
「早く向った方がいいわね。あの子、何かおかしなことを吹き込まれたみたいだから」
「はい」
「――命令よ、橙に正しき道を示しなさい」
命令、それは式神にとって絶対の力を与えるものだ。
決められた命令の内ならば、式神は主に匹敵する力を与えられる。
このような命令をさせるなど、尻拭いもいいところだった。
後悔をより深く、大きいものとしながら、私は表へ飛び出す。
土を踏む足は万物も砕けるように思えた。当れば砕ける木々など避ける必要もない。
飛ぶよりも土を砕き疾走する方が遥かに速かった。
月の満ちた今、命令を授かった私を止められるものは居ないようにも思える。
月明かりだけが照らす夜道を、夜露の匂いを切り裂いて突き抜けていく。
途中、何かの死骸を見つけた。
どうということはない、式に食い殺された愚か者の死骸だった。
瞳を向けた時間を惜しく思いながら、夜露に混じった橙の匂いを辿っていく。
空には満月が妖しく嗤っている。不安だけが積み重なっていく。
森の開けた見覚えのある場所で人影を見つけて、私はようやく足を止める。
橙に似たその人影は猫をぶら下げて、怪しく、妖しく、狂ったように口を笑みに歪めていた。
「――橙っ!」
◆
従わせる。服従させる。簡単だ、私は猫達より強い力を持っている。
あの山犬も言っていたではないか、下の者には強さを、何よりも恐怖を与えろと。
ズキズキと頭の中が煩い。音と共にドロドロとした何かが沸いてくるような不快感が積もっていった。
私は、おかしくなっている。
だって、こんなに気持ち悪いのに、指を添えた唇はこれ以上ないほどに笑っているのだ。
目の前には猫が居た。私を小馬鹿にするようにそこに居た。
身体が熱くて堪らなかった。だから、私は猫にゆっくりと近づいていく。
何も考えられない白濁とした意識の中、この不快感が教えてくれるのだ。
■すれば気持ちよくなれる。この熱も少しは冷めてくれると。
猫達も、私を恐れて従ってくれるようになるよって、優しく囁いてくれるのだ。
猫さんと目が合った。
大きな体躯に三毛模様の意地悪ミケさん、その黒い瞳に私が映っている。
恐怖に染まった鏡には、口を大きく歪めた妖怪が映っていた。
嫌悪感が胸を込み上げてくると同時に、それさえ燃やして不快な熱が渦巻いていく。
その異常が伝わったのか、ミケさんは硬直していた身体を大きく動かして背を向けた。
素早い足で逃げ出すけれど、そこにいつもの鋭さは無い。
動きはとてもしなやかなのに、本来なら目にも留まらぬそれが止って見えた。
「駄目だよ、ミケさん。そんなに遊んでたらさ」
ほら、簡単に捕まえちゃった。
何だか可笑しい、こんなに簡単なことだったのだ。
ミケさんの瞳がよく見えた、怯えしかないその目がなんとも愛おしくて。
微笑みながら、指先に力を籠めていく。
ミケさんばいばい、猫の中でも地位の高い貴方が死ねば、きっと皆私を認めてくれるから。
笑いが止らない、熱が冷めるどころか増していく。
脳みそなんて煮立っていて何も考えることなんて出来ない。
アツイアツイアツイアツイアツイ――ヤメテ。
「――っ!」
何かが呼んでいるような、懐かしい声が聞こえた。
それでも手は止らない、不快感が収まらない。
絞ったミケさんの首から声が漏れるが、きっと酸素が無理矢理出された音だろう。
口がこれ以上歪められるのと同時、最後の指に力を籠めた。
――駄目だ。
瞬間、私は横合いから引っ張られるような感覚に包まれていた。
「――あ」
強い衝撃に脳を揺らされて、気がつくと私の身体は土の上に寝そべっていた。
息が荒い、頭に激痛が走っている、意識は更に曖昧になっていく。
それでも、目の前に現れたその姿を目にすると、熱が急に冷めていった。
「藍……さま?」
痛みを残す頭に触れると、血の止った傷痕の隣に新しい傷が出来ていた。
ぬるりとした感触に手のひらを開けば真っ赤な血がついている。
殴られた、藍様が私を、優しい藍様が怒っている。私を殺そうとしている。
信じたくなかった。私は初めて、藍様に恐怖を抱いていた。
恐い、ぶたれるのは恐い、死ぬのは恐ろしい。
それでも、私は先程まで殺そうとしていたのではなかっただろうか。
「橙、お前は何をしている」
冷めた声がする。金色の瞳が私を見つめている。そこに、優しい微笑はない。
漂う妖気は普段は感じたこともない程膨大で、それが主の本気だと直感で分かる。
ふさふさで、私の特等席だった尻尾は今や一振りで私を殺せる刃となる。
恐かった。何よりも、藍様に嫌われたのが一番恐かった。
「や……来ないで……」
一歩、藍様が踏み込んでくる。私は惨めに、尻をついたまま後へと下がっていく。
飯綱権現の憑いた九尾の大妖、条件下においては紫様にも及ぶ妖力を持つ式神。
死にたくなかった。激しい熱が甦り、身体中を巡って加速していく。
「……命令だ、橙。全力で抵抗しなさい」
命令という言霊が鼓膜を揺さぶると同時、身体を支配していた熱も弾け飛ぶほどの衝撃が襲ってくる。
空気がチリチリと焼けていくのが分かった。景色が急激に速度を落としていく。
私の身体に憑いた鬼紳が完全に私の力と成る。
意識が再び白濁としていく。それでも妙な熱と不快感は消え去っていた。
私は、抵抗しなければいけない。
――化猫 「橙」
スペルカードも何もない、速度と単純弾幕の突撃。
足が土を咬む度に、地面が爆音と共に爆ぜた。回りこむ際に擦れた大木がなぎ倒された。
今まで感じたこともない速度域の中、今まで向けたことの無い爪を藍様へと向ける。
藍様は動かなかった、避けることさえしなかった。
肉を裂く感触が爪を伝ったとき、藍様は確かに笑っていた。
――式神 「八雲藍」
爪が折れる音が聞こえたときには、藍様の姿は既に消えていた。
後ろを振り向く、金色の瞳がそこにある。微笑は消えている、私の恐怖も消えている。
ただ純粋な、尊敬と誇りだけが感じられた。
そうか、私は――この人だから従っていたんだ。
私は間違える以前に、解ってすらいなかったのだ。
意識が落ちる直前まで、瞳は己の主の姿を追い続けていた。
視界が暗転する。死したとしても悔いはきっと無い。
◆
懐かしい光景があった。
初めて差し伸べられた手。屈服させられるような威厳。
従えという言葉に、私は音が途切れる前に頷いていた。
つまりはそういうことなのだ。意思を持つものは恐れで縛れるものではない。
屈服させるほどの力と、従わせる為の人徳のような威厳。
それが、式神を持つものには必要だった。
私にはそのどちらも無い。
そのことを理解せず、挙句の果てに間違った方法を選んでしまった。
藍様はそれを教えに来てくれた。叩いてくれたんだ。
ありがとうって言わなくちゃ。
「……橙」
夢から覚めて、見上げた天井は藍様の顔に遮られていた。
思い詰めたような顔をしている。撫でてあげたかったけど、手は動かなかった。
「らんさ……ま」
幸い、声だけは無理をすれば出た。
気づいたのか、藍様は顔を寄せて私の手を握ってくれる。
それが嬉しくて、嫌われていないのが解って、痛む身体を無視して私は笑った。
「ごめんなさい……私、何も解っていませんでした」
恐怖なんかで縛れるわけがないのに。
「藍様はいつでも、教えてくれていたのに」
従わせるのではなく、従いたくさせるのだと。
今更のように、気づいたのだ。
藍様は驚いたような表情をしていた。
それでも、すぐに満面の笑みを浮べて、私の身体を抱きしめた。
「橙、お前はもう力を手に入れた。後は……」
「はい。まだ何となくだけど、ようやくわかりました」
藍様はそうか、と呟くと、また私を抱きしめた。
動かぬ腕では抱き返すことも出来なくて、所在無く瞳を動かすと、視界の端に紫様を見つける。
「大きくなったわね」
久しぶりにあった友達の母親のようなことを溢して、微笑む。
紫様の言うことはよく分からないが、初めてかけられた言葉はとても解り易いものだった。
心にかかったカーテンが開いていく、暖か何かが溢れてくる。
藍様に抱きとめられ、紫様に微笑まれながら、私は声も溢さず涙だけを溢れさせていた。
「橙、お前は成長期だったんだ。その為急激に増えた妖力が暴走した」
「じゃあ、歩いても走ったように聞こえたり、茶碗が割れたりしたのも……」
「私は、すぐに気づけなかった、その為に辛い思いをさせたな」
藍様は呟くと、頭を下げる。
私は慌てて否定や反論を叫んでも、下げられた頭を上げてはもらえなかった。
「大きすぎる力は少しの間封じてある。それでも、以前とは比べられない程の妖力が今のお前にはあるんだ」
「式神を持つのはいいけど、先ずは自分の力をちゃんと扱えるようになりなさい」
俯いたまま言う藍様の言葉を、紫様が続ける。
ようやく動かせるようになった手のひらを掲げて見つめてみても、以前と変わったところは見られなかった。
「……先ずは、ミケさんに謝らなくちゃ」
呟くと、藍様と紫様は大きく笑って、頭を撫でてくれた。
今はまだ役立たずでも、きっと強くなれると言ってくれた。
だから、私はまた大きく笑えたのだった。
◆
「ごめんなさい」
言葉ははっきりと、目の前の猫に向けて飛んでいく。
ミケさんは暫く私の瞳を見つめて、差し出した獲物に口を付けてくれた。
その仕草から、どうにか許しを得たことを知る。
私は息を吐き、ミケさんの隣に腰掛けた。
相変わらず猫達は好き勝手に遊びまわり、私のことなど気にも留めない。
ミケさんだけが、私の隣で獲物を貪っていた。
「私、絶対に従いたいって思えるような妖怪になるからね」
誰に言うでもなく宣言して立ち上がると、吹く風に身を任せて目を閉じる。
キンと冷えた風は決意を固くするように吹き抜けて、私を包んでいく。
ようやく見つけた明確な道は、なんとも晴れやかな気持ちにさせてくれた。
不意に、後ろから低い鳴き声が聞こえた。
目を開いて振り向くと、ミケさんが照れたように寝転がっている。
「――あ」
気づいて、手を掲げる。異変に気づいたかのように、周りの猫の視線が集まってきた。
「……従え」
呟くと同時、ミケさんは照れたような表情から一変して座りなおすと。
周りにもはっきりと見えるように、頷いてくれた。
間を一つ置いて、猫達の間にざわめきが広がっていく。
冷たい風が大きく吹き抜けて、零れた涙が土を濡らした。
式を持つにはまだ遠いけど、私は確かに一歩踏み出せたようだ。
一歩ずつ、歩んでいこう、学んでいこう。
いつか、式として藍様の役に立つ為に。
誇り高き、八雲藍の式として。
了
■作者からのメッセージ
藍様の式なんだから橙だって只者じゃない気がするんですよ。
故に、幼年期は弱小な大器晩成型ということにしてみました。妄想です。
因みに、作中で藍が紫のスペカである式神「八雲藍」を使っているような表現がありますが。
こちらはスペルカードではなく、あくまで表現ですので。
ここまでお読みいただき本当にありがとうございました。
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