“きすひふう。”

作:眼帯兎






『今宵、貴女の唇を頂きに参ります。』  草木も眠る、というのは些か古いだろうか。  車の排気音と二十四時間営業店舗の灯かりが漏れる夜に、大昔のような暗さはない。  遮光カーテンが無ければ、昼のような明るさが取り込める都会の賃貸マンションの一室。  光の科学化が進む現在の日本には、今はもう本当の夜は見つけられない。  しかし、時計がデジタル化した今も、時の長さは二十四時間のまま変わらず。  眩しい夜は液晶の画面が写す零の並びの通り、丁度日付が変わる頃となっていた。 「これはまた、古風なものを……」  薄暗い部屋の中、壁に突き刺さった一枚のプラスチックカードが、窓から漏れてきた光を映して輝いている。  同時に、清潔を保ち続けていた敷金無しの賃貸マンションの壁紙には、消えない傷跡が残された。  ああ本当に、これが謎の美形盗賊からのメッセージなら、乙女らしくときめくことだってできたというのに。  メリーは一つ溜息をついて、メッセージカードの続きを読み上げた。  その見慣れた名前は、口にするのも億劫だったのだけれども。 『――宇佐見、蓮子』  本当に少しだけ、メリーは頭を抱えた。  そして、微かな殺意を確かに覚えた。  どうしてくれるのか、この塞がらない壁紙の傷を。  どうしてくれようか、今まで躍起になって守り続けてきた、入居当時と変わらぬあの純白を失ったこの怒りを。  どうすればいいのか、このやり場のない慟哭と絶望は。  今は友人の奇行よりも、壁紙が大事なメリーである。  親の援助があるとはいえ、お金というのはいつの世も大切なものなのだ。  さて、メリーが蓮子の奇行に対し現実的な目を向けたのは、夜が明けて二時間が経過してからであった。  因みに、傷は接着剤と粉状にした紙片で修復済みである。 「傷……目立つわね」  しかし、確かに納得できる仕上がりではあったが、やはり違和感は否めない。  壁に頬を擦り付けてみれば、微かに浮き出て見える傷跡。  そんな小さな傷が、メリーに何ともいえない気持ちを抱かせるのだ。  そして、現実逃避に目を向けたのが、このプラスチックカードである。  トーストにコーヒーをつけた質素な朝食の間、メリーは眉を寄せてそれを凝視していた。  ずいぶんと手の込んだもので、メッセージの端には可憐な花びらのイラスト等も印刷されている。 「それにしても趣味が悪いわね」  何度読み返してみても、それが意味することは変わらない。  つまり、メリーの唇を蓮子が奪いにくる。  あの蓮子ならやりかねない。むしろ、きっとやるだろう。  長年連れ添ってきた友人として断言する。  やりますよ、宇佐見蓮子はやりますよ。   「――泣きたくなるわ」  磨りガラスの向こう側にある滲んだ朝日を、メリーはやけに眩しく感じていた。 ■  さて、メリーは普段から品行方正であり、学内での評判も良い。  それは、弛まぬ努力、勤勉さであり、天性の才能ともいえる頭脳が自然とそうさせるのだ。  容姿も上の下くらいには位置付けられている。  何処かの誰かが、自分に気があるなどという噂を耳にする程度には容姿端麗といえるだろう。  そして、その優良学院生であるメリーが、教授の講義を聞き取ることもせず考え続けている。  瑞々しい唇を歪め、形の整った眉を寄せるその姿は、何処から見ても真面目な学生だ。 「……蓮子をどうやって止めようか」  とはいっても、外見というのはいつでも内面を素直に映すわけではない。  誰もが心打たれる勤勉な姿をしたそれは、学問には全くもって関係の無いことに悩み続けていた。  だがしかし、メリーにとってこれは大問題である。  高校生でもあるまいし、今更キスの一つで騒ぐ気もないのだが、喜んで受け入れる気もさらさらない。 「でも、どこまでかにもよるかしら」  そう、例えば頬に唇を押し当てる程度なら、軽い悪戯や親愛の証みたいなものだ。  唇も、微かに触れる程度なら、苦しいが祖国の挨拶と言えなくもない。  メリーにとって、蓮子は親友と呼ぶべき部類だ。  それなら、少しくらいは―― 「いやいや、道徳的に、世間体的にそれは」  深い溜息と共にそれを否定する。  そして―― 「……それに、同性でするなんて私は嫌よ」  何かに気付いたように、メリーは付け足すように言葉を溢した。  退屈な講義の終わりはあと三分少々。  メリーが我に返ったのは、それから更に五分ほど経った後のことだった。 ■  閉じた目蓋の裏に、一つの問いが浮かぶ。  何故、自分はこんなにも困っているのか。 「蓮子が妙なことを言い出すから……」  暗闇の中、二つ目の問いが浮かぶ。  何故、蓮子の行動に戸惑っているのか。 「いくら親しいとはいっても、それはいけないことだわ」  三つ目。何故、それはいけないのか。 「同性だから。常識的に、社会的に、生物の構造的に無理があるもの」  それは、自分が抱く蓮子への好意を天秤にかけた上での否定なのか。 「……そう」  では友人として、蓮子のことは。 「――好き」  言って、見上げた空はもう紺色に染め上げられていた。  あれだけ明るかった空にはもう、青どころか橙色さえ見当たらない。  大学院は全ての講義を終えて、閉館時間を待つばかりとなった。  下らない自問自答を続けながら、メリーは結局、一日中蓮子に振り回されていたことになる。  メリーにとって、それは普段どおりのことだった。  しかし何故だろうか、今日に限って、メリーはその普段どおりが癪に障って仕方がない。  もしかするとそれは、講義中、乾いた唇に塗りつけたリップクリームの後味だったり。  何となく頼んだナポリタンをキャンセルして食べた、サラダの物足りなさだったり。  他意なく購買で買った、キシリトールガムの辛さのせいだったりするのかもしれない。 「これじゃあまるで、一日中キスのことを気にしていたみたいじゃない……」  その全てが、まるで蓮子のことを意識しているようで、気に入らない。  明るいネオンの泳ぐ古い町並みを歩く中でも、僅かに届く星の光を仰ぐ途中でも。  講義を全て聞き流していた事実に憤慨している中でも、意識は自然と蓮子を向いていた。  メリーはそれが、本当に気に入らない。  結局、そんな自問自答と苛立ちは、メリーがベッドに倒れこむまで続いたのだった。 ■  時刻は零が並び揃う十五歩手前。  明かりの消えたハーン家の玄関前で、宇佐見蓮子は細く笑う。  恐らくは、メリーがこの扉の向こうで待ち構えている。  そして、蓮子にどういうことかと問い詰めてくるのだ。 「でも甘いわ、甘々よメリー」  そう、丁度土産に持ってきたショコラパイシューぐらいの迂闊さだ。  学内でこっそりと見守っていた様子からして、今日一日、メリーは大いに頭を悩ませたのだろう。  しかし、それは無意味なことだった。  どのような鬼才の君子が頭を悩ませたとしても、『既に起こってしまったこと』を回避することはできないのである。 「今宵、貴女の唇を頂きに参ります。カードを届けたのは夜だもの、その日の内に頂いてしまうのは当然よね」  メッセージカードを壁に刺したのは昨日の深夜、日付の変わる前。  別段曜日を指定しているわけでもないのだ、手に届く距離にあるそれを取らずに帰るほど、蓮子は間抜けではない。  幼稚な悪戯なのだ、そのくらいの茶目っ気は許されるだろう。 「ふふ、メリーの怒る顔が目に見えるわ」  因みに、手土産は頬を膨らませるメリーを宥めるためのものである。  これを前にして、怒っていられる女の子がいる筈がない。  往々にして、甘くて美味しいものに女は弱いことを、蓮子は自分のように知り得ている。  まあ、本当に自分のことではあるのだけれど。  因みにこちら、午前中にすっかりとメリーが術中に嵌ったことを確認してから、すぐに買いに走った限定品である。  そして、だからこそ気付くことができなかった。 「さて、メリーは良い子に待っているかしら」  ポケットから昨日勝手に持ち出した合鍵を取り出して、勝手知ったるるハーン家に踏み込む。  しかし、蓮子の予想に反して、戸口から居間にかけての間に明かりは点けられていなかった。  メリーの性格上、蓮子の問題を正さないまま床に就くというのは考えにくい。  故に、蓮子は少しだけ、踏み出そうとした足を留めていた。  見下ろした戸口には、メリーのお気に入りの赤い靴が綺麗に揃えられている。  一つ間を置いて、足を上げたまま、蓮子は何かの罠かと考えをめぐらせる。  しかし、蓮子は結局そのまま足を踏みおろした。  自分の良く知る友人は、直接的な方法より知性で問い詰める方を好むことを思い出したのだ。  本当に、どこまでも自分と一緒で。 「――本当に寝てる」  そして、一歩踏み入れた先に見えた光景に、蓮子は足を止めた。  僅かな膨らみを見せる花柄の掛け布団からは、金糸のような髪が零れ落ちている。  間違いなく、メリーはこの下で寝息を立てているだろう。  蓮子は半ば呆れて、窓の外のネオンに照らされる布団を見下ろしていた。  まさか、本当に眠っているとは考えもしなかったのである。   「昼はあんなに気にしてたくせに」  この悪戯の為だけに大学をサボった蓮子にしてみれば、非常に面白くない展開だった。  眉を顰めて、慣れてしまった自分の部屋とは違う甘い香りに鼻を鳴らし、蓮子は頬を膨らませる。  とんだ誤算だ、しかし―― 「いいわよ。それならそれで、もう一度頂いていくから」  キシ、とメリーが奮発して買った柔らかいベッドに、蓮子の膝が沈んでいく。  そして、悔しいけれど自分より細いメリーの身体をまたぐように覆いかぶさってみて、蓮子は息を呑む。  それは決して甘美な予感から来るものではなく、突然の出来事への怯えと戸惑いの表れだった。  蓮子の背には、白く細い腕が回されている。  きゅっ、と布の擦れる音と共に、布団の中から白い腕がはえてきたのだ。  その安っぽいホラー映画のような演出を前に、蓮子は自分が押し倒されたことに気付いた後も声を出すことができなかった。  最初とは真逆の体勢になって、蓮子は自分に覆いかぶさる影を見上げる。  丁度窓を背にする誰かの表情は、影になってよく見えない。  だた、目に優しくない人工色の光を映すその純金の髪は、間違いなくメリーのものなのだと分かった。 「め、めりー?」  引き攣った笑いと震える声に、返答はない。  蓮子は口を噤み、行き過ぎた冗談をいまさらのように後悔した。  同時に、それを少しだけ寂しく思いながら、困ったように笑顔を溢す。 「ほら、ごめんねって。お土産にショコラパイシュー買ってきたから」  すぐ隣のテーブルに置いた紙袋に手を伸ばそうとして、蓮子は自分がしっかりと押さえつけられていることに気付いた。  肩を掴む力は強く、まるで背中がベッドに縫い付けられているかのように固定されている。 「――遅い」 「え?」  ようやく手に取った紙袋を揺らしながら、蓮子は間の抜けた声をあげた。  時には一時間待ちの行列ができる売り切れ必至の限定品。  そんなものを買いに行っていたから、蓮子は気付くことができなかった。  そして、今頃気付くことになったのだ。  メリーの様子が、おかしくなっていることに。 「遅いのよ、いつまで待たせるのよばか蓮子! あんたのせいで一日中っ――もうっ!」  引き攣った笑み、耳まで朱に染まった頬、目元に薄く滲んだ涙。  ようやく見えたメリーの表情は、本当に奇妙なものだった。  そして、妙な予感と共に、蓮子の顔にも引き攣った笑みが伝染していく。  今この状況をコミカライズすれば、きっと蓮子の頭上には縦線の影と大きな汗が滲んでいるはずである。 「メリ――っ!」  しかし、落ちてくる唇はコミックのような容赦は無しに、蓮子のそれと重なった。  触れた優しい感触に、抵抗する理性が遠ざかる。  手荒く押し飛ばすことも出来ず、受け入れるつもりもなく、唇を合わせたまま無意味に手足を動かす。  繋がった部分に妙な熱を感じながら、蓮子は閉じていた瞳を薄く開いた。  目の前にある見知った顔、上気して夢中で自分の唇を貪る友人の姿。  熱く荒い吐息、時折ぶつかる歯の妙な感覚、瞳に映りこんだ自分の瞳。  抵抗もなく、滑り込んできた柔らかいものの感触を舌の上に感じたとき、蓮子は全ての抵抗を終えた。  投げ出された手足は僅かに震え、メリーの熱がうつったかのように火照る体には、玉になった汗が滲む。  そして、蓮子はゆっくりと、右手をメリーの背に置いた。  脱線した車輪は、まだ止まることなく転がり続けていく。 ■  翌日、蓮子は結局メリーの家から大学院へと向かった。  まだ低い日の光が二人分の影を伸ばす中、少し冷たい風が吹き抜けていく。  早朝の静寂は雀の小さな鳴き声さえ響かせるというのに、駅への道を辿る二人の間に言葉はない。  ただ、電車に揺られるメリーと蓮子は、知人が乗り合わせる駅まで手を繋いでいた。  会話も何もないのに、ただ何となく、二人してその手を放そうとはしなかった。   了


■作者からのメッセージ 黒歴史番外編。 さて、まずはこのような拙作をお読み頂き、ありがとうございます。 なんといいますか、あれです、キスシリーズの秘封倶楽部版といいますか。 次は再び紅魔館の○○キッスシリーズでも始めようかと……。 書くとしたら、次は咲夜さん? ともかく、ここまでお読み頂き本当にありがとうございました。 次作にもお目通し頂ければ幸いです。



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