“たいせつなうた。”

作:眼帯兎






 強い風は爽やかに、微かな寒気を残して私の身体を突き抜けていく。
 なだらかな丘には、青々とした背の低い草花が風に揺れていた。
 草原の広がる無名の丘には高い木も見られず、視界の全てが空の青と草原の緑に覆い尽くされる。
 そして、雲も近くなった空からは、白い鈴蘭の花畑も見えた。
 それは、人々に恐れられた花畑であったが、風下にあっては自慢の毒も意味は無く、年中割き続ける妖怪花もただの花に成り下がる 。
 こうなっては、か弱い人間にだって観賞することは容易いだろう。

「早くー、鈴蘭が綺麗だよー!」

 そんな、美しい光景を前にして、私は歌うよりも先に後方へと呼びかけた。
 少し前の私は何よりも歌うことの方が大切だったはずなのに、今は後に続いて来る人間の方が大切になっている。
 それは、つまり命よりも、彼が大切になっているということなのではないだろうか。

「……不味いなぁ」

 思わず呟いて、それでも構わないと思っていることに、自分が重病なのだと気付いた。
 無論、恋の病というやつのことである。

「ミスティア、あまり先に行かないでくれ」
「はーい」

 長い溜息の途中に届いた、その透きとおった声に、私は慌てて振り返る。
 私がこんなにも上機嫌なのは、重病なのは、この一見普通の人間が原因なのだった。
 特徴の無い黒の短髪、そこそこに整ってはいるが平凡な顔立ち、唯一の特長とも言える透きとおった綺麗な声。
 その全てが、私にとっては特別な男性。
 それが、彼だ。


 結局、早々に私との関係が広まって、彼は人間の里に居られなくなった。
 そのときに屋台に居た客は、誰一人としてそんなことを広めなかったと言う。
 理由を聞いてみると、あの夜、里中に回覧板が回ったらしい。
 彼が言うには、それは幼い頃から変わらない、見慣れた、汚らしい文字だったそうだ。

「あの人なりに気を使ったんだろう、覚悟が鈍らないように。確かに、悪意は感じられるけど、最初からこうなることは分かっていたしな」

 こうして一夜の内に居場所が無くなったというのに、それでも彼は笑っていた。
 そして、情けないと溢しながらも、彼は私の家に間借することになっている。
 勿論、強がりも混じっているのだろうけれど、彼には悪いのだが、私にとっては嬉しいことの方が多かった。
 今朝、目覚めに彼の姿を見たとき、夢の続きを見るような気持ちになった。
 その上、こうして人目を気にすることなく出かけることもできるし、会いに行く口実だっていらなくなった。

「風が、強いね」
「おう」
「少し、寒いかな」

 胡坐をかいて座る彼の膝上に、そんな建前を溢しながら座ってみる。
 彼の大きな体の中に、私の身体はすっぽりと納まってしまって、伝わってくる温もりが予想以上の羞恥を私に感じさせる。
 堪えかねて彼の顔を見上げたのだが、予想以上に平然とした態度に不満を覚えた。
 腹いせに抱きしめてやった大きな腕は、何故か不自然に震えていたのだが。

「まだ寒い?」
「別に、そんなことは無いけど」

 一つ溜息をついて、背を彼に預けて倒れこむ。
 丁度良い温もりは段々と心を落ち着けていって、何となく眠くなってきてしまう。

「……歌」
「うん?」
「歌って欲しいな、あなたに」

 まどろみの中、私は無心にそれを望んでいた。
 不意に、彼は何かを思いついたような顔を浮かべる。
 しかし、睡魔に犯された頭では追求することもままならず、私はぼんやりと頷いた彼に頬を緩ませて笑うことしかできなかった。
 まぁ、歌ってくれるというのなら、邪魔をすることも無いだろう。
 小さな咳払いの音を合図に、私は瞳を閉じて、同時に歌は始まった。

――夜歌に誘われ、歩く森の道すがら。ただ一人、願いを篭める。

 思ったとおり、透きとおった彼の歌は心地よく、私を包み込んでくれた。
 不思議なもので、彼の傍に居ると全てが違う景色のように見える。
 風を受ける翼の調子も良好で、震える喉は今までで最高だった。
 満たされた心から、楽しいことや嬉しいことが溢れてしまうような満足感である。

――どうか、可愛い歌姫よ。

 恐らくは、これが幸せというものなのだろう。
 そして、私はそんな空気に耐えられず、眠りに付こうとして、


「私のお嫁に来ておくれ……」


 眠気など、その瞬間に消えてしまった。
 閉じかけた瞳は自然と見開かれて、頭上にある彼の顔を仰ぎ見る。
 背後から抱かれる形のため、私からは逆さまに見えた彼は、真剣な眼差しで私を見つめていた。
 そして、正面から見詰め合ってようやく、私は彼が緊張していることを悟る。
 全く、私の答えなんて決まっているというのに、そんな不安そうな顔をしないで欲しい。

「……嫁に来て欲しい」

 聞こえなかったのかと思ったのか、惚けていた私を見て、彼はもう一度、告げる。
 その言葉が冗談の類ではないことを知って、私の頭の中はますます白濁としていった。
 こういうとき、どういう表情で答えれば良いのか分からない。
 それでも、体というのは便利なもので、私の顔は自動的に笑顔を浮かべてくれたようだった。

「――はい……私を、ずっと傍に置いてくださいね」

 故に、私は何も気にすることなく、答えることができた。
 そして、力いっぱい彼を抱きしめて、抱きしめてもらって、気付く。
 視界は瞬く間に水に沈んで、まるで泣いているかのように、大粒の雫が頬を伝う。
 しかし、こんなにも嬉しいのだから、幸せなのだから、それはきっと涙ではないはずだった。
 恐らくは、どうしようもなく嬉しくて、もっと好きだと伝えたくて、どうすれば良いのか分からなくなった私の汗か何かだろう。
 今は何も考える余裕など無くて、私はただ、目の前の彼を精一杯に抱きしめることしかできなかったけれど。
 とりあえずは、最後の力を振り絞って、呟いた。

「“あなた”を、愛しています」





 ■





「こんなに、幸せでいいのかな……」

 不意に、そんな言葉を呟いてしまった。
 どこまでも続く高い空は澄みきって、雲ひとつ見当たらない青の中に歌声を上げる。
 何より、すぐ隣には彼がいるのだ。
 なるほど、それを思えば、先の言葉が溢されたことにも納得がいく。
 それなのに――

「今までずっと泣いてきたんだ。これからはもっと、幸せにする」

 彼は、平然とこんなことを言う。
 これ以上の幸せなんて、手に入れてしまっても、私にはどうすれば良いのか分からないというのに。

 きっと、私は笑いが止まらなくなってしまう。
 そして、もっと彼を好きになっていく。
 それでも、ずっと好きでいた“彼”も忘れたりしない。

 思えば思うほどに、都合の良い話だ。
 それでも、彼は私を幸せにしてくれると言ったのだし。
 これが最後のわがままだと言えば、許してくれるだろうか。

 彼と愛し合った時を、私は忘れたりしない。
 そして、彼は彼として愛している。
 この二つを一緒に考えるのは、やはり何かが違うと思うから。





――許してね、私の愛しい人。





 私の愛する人は二人いる。
 私の大切な歌は、二人分ある。







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