“せいねんのうた。”作:眼帯兎朽ちた倒木に座り込み、青年は空を仰ぎ見ていた。 身体を支配していたはずの恐怖も今はなく、ただ居心地が悪そうに肩を狭めている。 その理由は青年の隣、純白の体躯を横たえた山犬にある。 「いや、お前がミスティアのナニだったとはね、危うく喰らってしまうところだ」 その声は低く重たいもだったが、どこか朗らかで友好的に聞こえた。 山犬の身体は予想以上に大きく、青年の身体を二つ並べてようやく届く高さに顔がある。 その為、座り込んだ青年からは彼の顔が見えなかった。 しかし、もしかすると彼は笑っているのかもしれない。 表情が窺えないため確証はなかったが、青年にはそう見えたのだ。 そんな状況を考えると、人間と妖怪が二人隣り合って座り込むというのも、奇妙な光景に思えた。 「知っているのか、彼女のこと」 沈黙に耐えられず、そんなことを尋ねてしまう。 そんな場繋ぎの言葉に、山犬は小さく鼻を鳴らしてみせる。 鼻の大きさも相当なので、小さなそれでも青年を軽く吹き飛ばそうとして、更に肩身を狭めていく。 「当然、あいつと私は組になって動く妖怪だ。あいつが目を潰してチンと鳴く、そして私が問いかけるのさ、餌 食をよこせ――ってね」 そう、夜雀が鳴くと山犬は出る。 実際に現場に遭遇しているためか、軽い口調のそれに、青年は引き攣った苦笑いで応えた。 あまり好ましくない対応ではあったが、山犬は気にしていないのか、気付いていないのか、とにかく上機嫌に 胸を張るような仕草をして見せる。 こうして相対してみると、実は人間に対して友好的なのかもしれないと、青年は思ってしまう。 しかし、忘れてはならないのだ。この存在は人間を襲うということを。 分かっているはずなのに、どうしても、青年は溢れる笑みを止めることができなかった。 何故笑ってしまうのかは、青年自身にも分からない。 ついでに山犬にも分からなかったのか、あちらも目を丸くして青年の顔を不思議そうに覗き込んでいた。 それがまた妙な笑いを引き起こして、しばらくの間笑い声は止まらず、暗い森の中に木霊していた。 「それで、色男がこんなところで一人かい。ミスティアがあんたを一人にするとは思わないんだけどねぇ」 相変わらず低い唸りの口調は軽く、意味ありげな視線を向けてくる。 それに、青年は顔を背けることしかできなかった。 そんな仕草に何を見たのか、背後から小さく、溜息の音が聞こえてくる。 恐らくは、背後の山犬は呆れた表情で青年を見下ろしているのだろう。 情けない自分を再確認することが怖くて、青年は振り向くことができなかった。 「まぁ、私の知ったことじゃないね。大体予想はつくよ」 「――俺が、悪いんだよな」 「いいや」 予想外の言葉に、青年はゆっくりと振り返る。 伏せの状態になった山犬は、呆れたように口元を歪めていた。 ただ予想外だったのが、遠い目をした彼の呆れが、自分に向いていないことだった。 呆然とする青年に気付いたのか、山犬は苦笑するように呆れを笑みに変えて見せた。 「あいつはお前のことをありのまま受け入れるって宣言していたんだけどね……」 どこか悟ったような口振りに、青年はどうしても共感を持つことはできなかった。 「ミスティアは分かっていたのに、間違えたんだ。どんな理由があったかは知らないけどさ」 最初に逃げ出したのは、自分の方なのだから。 そんなことを思いながら、月が眩しくて、青年は再び顔を伏せた。 山犬はそこまで語ると、試すような瞳を青年へと向ける。 しかし、青年は俯いたままで、終始その視線に気付くことはなかった。 それも当然だろう、そんなことに気をやる余裕など、今の青年にはない。 その肩はまるで泣いているかのように震えて、激しい自己嫌悪と後悔に押し潰されそうになる。 「なんだ、やっぱり俺が悪いんじゃないか」 「……なんで?」 その呟きに、表情を固くした山犬が退屈そうに尋ねてきた。 瞬時に冷めた笑みには先程までの朗らかさはなく、もしも青年が下らない自虐を並べていたら、迷わず食い 殺していたかもしれない 「……理由なんて、無いけどさ」 しかし山犬は、呆然と目を丸くすることしか出来ずにいる。 顔を上げた青年の姿は、数秒前とは大きく違っていた。 悩みを払拭した青年の瞳には、迷いの色はもう見られない。 「強いて言うなら、それは惚れた弱みってやつだ」 普段なら死にたくなるような恥ずかしい言葉も、覚悟を決めた今はすんなりと出てくる。 同時に湧き上がる笑みは爽快で、先程までの悩みが馬鹿らしく思えて笑いが止まらなかった。 どれだけ小さなことで逃げ出していたのだろうか。 最初から考えれば簡単な問題だったのだ。 自分はミスティアが好きで、彼女がまだ居ない誰かを想っているというのなら。 「誰でもない、俺に惚れさせてやる!」 「――っ」 聞き取れないほど小さな呟きが、山犬の唇から溢される。 そして、次いで出てきたのは、天を裂くように大きな笑い声だった。 「――っく! ははははははははっ!」 「そ、そんなに可笑しいか?」 止むことのない笑いに、流石にばつが悪そうに青年が愚痴った。 心からの言葉というものは、気付かないように振舞っているだけで、本当に恥ずかしいものなのである。 「いいや! 可笑しくなんてないとも!」 そんなことを言いながらも、山犬は笑いを止めようとはしなかった。 やがて不満そうな青年に気付いたのか、忍び笑いを溢しつつも、どうにか言葉を続けようとしている。 「分かったよ、理由。いや、妖怪相手にそこまで言い切るなんてさ、すごい奴だなお前、良い男だよ」 「もしかしなくても……馬鹿にしているのか」 羞恥と怒りで高潮した顔を伏せながら、引きつった笑みを浮かべて青年は問う。 どこもかしこも張り詰めた様子で、それが逆に、山犬の笑いを加速させているようだった。 「――ふう。いや本当はね、ミスティアの言葉には反対だったんだ」 「……そうなのか?」 不意に、笑みを消して呟いた声に、青年もまた、伏せていた顔を上げて聞き返した。 巨体には似合わずに、可愛らしく頷いてみせて、山犬は言葉を続ける。 「育つ環境も違えば生き物の性質は変わるもんだよ。それをありのまま受け止めるとなると、幸せになれると は言い切れない。厳しいのさ、この世界は現実的な夢で出来ているからね」 本当にミスティアのことを大切に思っているのだろう、見上げた山犬の表情は悲しみで曇っていた。 それがあまりにも重く聞こえて、青年は何も言うことができず、頷きだけで答える。 山犬の言うとおり、ミスティアの選んだ道は、とても辛い生き方に思えた。 「でも、心配は要らなかったわけだ」 「――え?」 瞬間、山犬の表情からは悲しみの跡も消えて、満面の笑みが浮かべられていた。 細められた瞳は優しく、口はこれ以上ないほどに歪められて、人懐っこい飼い犬のような笑み。 その視線の先、木々が拓かれた獣道には――。 「見なよ、汚い顔して泣いてる。酷いもんだね、まるで親を探す子供のようだ」 「ミス……ティア?」 どこかで引っ掛けたのか、可愛いスカートに切れ目を残して、走り続けている。 どこに飛び込んだのか、靴はほとんど泥の色をしていた。 あんなに可愛い顔に泥を跳ねさせて、綺麗な瞳は涙で腫れて真っ赤になっている。 それでも、透きとおるような綺麗な声だけが変わらずに、子供のように青年の名を呼んでいた。 「さて、どうする色男」 そんなことは決まっていた。 青年は今すぐ駆け出して、ミスティアの涙を拭ってやって、大切なことを伝えなければならない。 「言ったろ、理由が分かったって。あいつはさ、あんたに“惚れ直した”ってわけだ。悔しいなぁ、色男!」 「――なっ!」 背後からの声と共に、走り出そうとした足が止められる。 同時に、青年は奇妙な浮遊感に抱かれていた。 周りの景色が青年一人を置いてけぼりにして加速していく。 青年は誰かに蹴り飛ばされて、真っ直ぐに飛行していた。 「あの、犬野郎」 呟いた矢先、青年は視界の端に人影を見つけた。 白い長髪を夜風に流して、闇に紛れる長身の少女。 その顔には、見覚えのあるいやらしい笑みが浮かんでいる。 彼、いや彼女に最後の悪態を吐いて、青年は勢いのままに飛ばされていく。 目下、青年の心の中を占めるのは、愛する少女に何と声をかけようかというものだった。 そして、もう一つ――。 「この勢い、死なないよな?」 声は情けなく、夜闇に抱かれた森に木霊する。 最後に再び目を向けた森の中に、山犬の姿はもうなかった。 次へ→ ←TOP |