“すれちがううた。”作:眼帯兎日々変わらず、夜はどんな世界にも等しく降りてくる。 それは、一寸先を闇色に染められたような、暗い夜だった。 そんな歌だけが聞こえる夜、赤い提灯を揺らしてその店は開かれている。 夜雀という妖怪が営むそこは、いつも歌声が絶えない場所と噂されていた。 しかし、現在青年が座る屋台は無音で、気まずい沈黙が漂っている。 それでも、沈黙を破る気にはなれず、青年は対面に立つミスティアの言葉を待つように、酒を呷り続けていた。 「……もう、来ないかなって、思ったんだけど」 「なんで?」 「嫌われちゃったかなって、ほら……」 朱に染まって俯くミスティアの声は消え入るように小さく、最後の方は聞き取れなかった。 それでも、青年は嫌と言うほどに内容を理解している。 故に、両者は頬に浮かべた朱を更に深めて無言となった。 青年は酒を手に頬の朱を誤魔化し、ミスティアはそれを盗み見ながら鰻の焼き加減を気にしている。 他に客が居たのなら、お互い気が楽だったかもしれない。 しかし、こんな日に限って、盛況な筈の屋台に他の客は見当たらなかった。 破れた沈黙は更に硬く結ばれて、再び場を覆い始めている。 「……あの、さ」 そんな沈黙を破るように青年が声をかけると、ミスティアは驚き、肩を跳ねさせた。 あからさまなそれに、青年は口を噤んでしまったが、やがて意を決したように口を開いた。 「今日は、歌わないのか?」 青年は、自分の浮かべる笑みが、無理のあるものだと知りながら言う。 それが可笑しかったのだろうか、ミスティアは僅かに口元を綻ばせた。 そして、ミスティアは逸らしていた目を向けて、笑顔を向けてくる。 何故だろうか、青年はその笑みに、決意のようなものを感じていた。 「道往く人よ、還らぬ人よ、その先の終りを知る人よ――」 目の前の笑みを、気に留める間もなくミスティアの歌が始まる。 穏やかなその歌声は、胸を通り抜けて心臓を揺らし、魂さえも突き抜けていくようだった。 初めて聞くそれは、何故か懐かしく、心の奥底に沈んだ記憶を持ち上げる。 それは、明るい彼女には珍しく、穏やかな雰囲気の鎮魂歌だった。 青年は、その歌を知っていた。 「――どうかな」 歌が終わるのに気付きもせず、青年は呆然とミスティアの顔を見上げている。 眼前には、照れたように微笑む彼女の姿があった。 「聞き覚え、あったりしない?」 その問いに、青年の心臓がドキリと音を立てた。 心の奥底に嫌というほどの近視感を覚えながら、青年はミスティアを見返した。 その反応に何を悟ったのか、ミスティアはただ笑みを深めていく。 それは、何処か嬉しそうで、何かが報われたかのような、救われた者の笑顔だった。 青年はそれに、言い様のない違和感と不信感を覚える。 何か自分にとって良くないことが潜んでいるような、そんな笑顔だったのだ。 「……ねぇ、妖怪はやっぱり嫌い?」 不意に、ミスティアは屋台の台を飛び越えて、囁くように尋ねた。 きっと、青年は妖怪を嫌ってなどいない。 故に、青年はすぐ隣に甘い匂いを感じながら、曖昧に首を横に振る。 隣では、安心したような表情でミスティアが息を吐いていた。 やはり、妖怪としては嬉しかったのだろうか。もしくは、他に別の理由があったのかもしれない。 その答えはミスティアにしか分からず、生憎と青年は彼女ではなかった。 「じゃあ……それじゃあね?」 「……うん?」 二度目の問いは歯切れも悪く、ミスティアは躊躇するように俯いてしまった。 青年としては、肩にかかる髪からの香りで意識が白濁としていたのだが、彼女は気付く様子もない。 そして、ミスティアは大きく深呼吸をして顔を上げると、その問いを囁いた。 「……私のこと、少しでも好きでいてくれるかな」 その囁きは、深呼吸をした割には細く、すぐ隣に居なければ聞えないほどだった。 しかし、小さな筈の告白は、明確に青年の鼓膜を揺らす。 青年は、首を振ることも出来ず、呆然と喉元から熱が上がっていくのを感じていた。 短い沈黙の間、ミスティアは不安そうに青年を見上げていた。 涙さえ零れ落ちそうな表情に、青年は言葉を見つけられずにいる。 それでも、青年は一つだけ分かっていることがあった。 それは、名を聞いたときからずっと抱き続けていた想い。 青年は、ミスティアのことを好きだと感じていた。 言葉に出来ないその気持ちに、段々と意識は白熱としていく。 「――ん」 故に、返答に言葉は使えず、青年は不意打ち気味に、ミスティアの唇を奪ってしまった。 それは抵抗も無く受け入れられて、一時の間二人は繋がっていた。 柔らかい感触と共に、屋台の匂いの中に僅かな甘い香りを感じて、青年は離れるのを惜しむように口付けに夢中になる。 しかし、酸素をなくした身体は当然のように呼吸を求め、息も荒く二つの影は身を離した。 そして、頬に浮かべた赤を更に深くしてミスティアは俯く。 その姿を前に、青年はようやく自分の行為に気がついた。 「……何やってんだ、俺」 まるで襲うような行為に目を背けることもできず、ただひたすらに、青年は頭を下げた。 「頭がぼうっとなっちまって、その、本当にごめ――」 「何で謝るのかな、私の方が先にしたのに」 ミスティアは可笑しそうに、嬉しそうに、赤い顔に笑みを浮かべていた。 その背後には、赤い提灯がキィキィと音を立てて揺れている。 二度目の口付けの最中、添えられた手の感触さえ感じられず、青年はただ、揺れる提灯を見つめていた。 その夜はまるで夢のようで、一目惚れした相手と一夜にして両想いとなって。 故に、青年は失念していたのだろう。 「よかった。ずっと待ってて、ようやく会えて……また好きになれた」 「……え?」 「あなたが再び、人間に生まれてくれて。私のことを想ってくれて……」 先に感じた違和感が、青年の心を突き破るように溢れ出してくる。 出会った夜に聞いた昔話を、青年は再び思い出していた。 嫌な予感が、揺れる提灯と同じような音を響かせている。 「……なんだよ、それ」 予感を打ち消す為に、青年は自ら終わりの言葉を紡いでしまった。 きっと、ミスティアにとっては先の言葉にこそ、重いものを感じていたのだろう。 故にその言葉は、残った僅かな想いの力が溢したものだったのだろう。 それが、青年にとっては一番重たい言葉だというのに。 「詩的に言うなら、前世から愛していた」 笑顔の言葉は、冷たく青年の心に沈んでいった。 他の人間だったのなら、それに運命的なものを感じたのかもしれない。 しかし、青年はその言葉に痛みを感じていた。 思い上がりもいい所だと、自分でも思いながら、どうしても納得は出来ない。 「……俺は」 何故、こんなにも痛みを感じているのか、青年には分からなかった。 ただ、ミスティアの気持ちが自分に向いたものではないと気がついて。 きっとそれは、前世とやらの気持ちが悲鳴を上げているのだ。 自分の想いが、こんなにも好きという気持ちが、前世の自分なんかのものとは信じたくなかった。 「……そうか、お前は人違いをしていたんだな」 「……え?」 「俺は、前世なんて知らない」 気がつくと、青年は走り出していた。 その姿を格好悪く思いながらも、耐えることなど出来なかったのだ。 背後に膝を着く音を聞きながら、青年は止まることなく夜の森を走った。 口からは、声にもならない叫びが溢れてくる。 それでも、想いは消えず、未練となって心に沈んでいく。 いつの間にか現れた月は歪に、眼下の人間を嘲笑うように浮び。 そんな月明かりの下、誰かの瞳が鈍く輝いた気がした。 次へ→ ←TOP |