“きっかけのうた”

作:眼帯兎






 それはきっと朝だった。
 見知らぬ天井が見えても、嗅ぎ慣れない匂いを感じても、窓から差し込む光だけは変わらないのだから。

 それはきっと夢だった。
 一夜を過ごした、名も知らぬ少女が隣で寝ているなど、夢でしか許されない光景なのだから。

 それはきっと現実だった。
 布を纏わぬ少女の温もりは絶えず伝わり、微かに触れた肢体は柔らかく、いい香りがしたのだから。


 故に、青年は声もなく叫んだ。
 心臓は破裂するのではないかと思うくらいに鼓動を強く、速いものにしている。
 声も出ない青年を余所に、少女はなんとも無防備に寝息をたてていた。
 前述した通り彼女は服を纏っていない、驚くほどに真っ裸である。
 その瞳が薄く開かれたとき、青年は思わず呻いた。
 この状況からして、彼女の愛くるしい顔が歪み、叫びが上がるのは必至だろう。
 知らぬうちに罪を犯している自分を恨みながら、何とかこの呪縛、というには甘過ぎる布団から抜け出そうと試みる。
 結果として、それは少女を完全に起こすという結果を招いただけであった。

「……おはよう」
「寒いー」

 苦し紛れに出したぎこちない朝の挨拶は虚しく、少女の意外な返答に意味を失った。
 彼女は叫ぶどころか、逆にその肢体を青年へと寄せて、抱きつくように手を回した。
 寝ぼけているのかとも思ったが、少女の瞳は大きく開かれて、青年を見つめている。
 状況を掴めず固まる青年を置き去りにして、少女はもぞもぞと布団の中を動き回っていた。

「あー、服あったぁ……」
「あ、あの」
「ごめんねー、もうちょっと布団から出たくないかも」

 情けなく微笑む少女は青年の腹の上、極楽といわんばかりに温もりを楽しんでいるようだった。
 勿論、青年としては気が気ではない。絶えず良い匂いがする上に、朝特有の男性の自然現象が起こっているのだ。
 ともかくと、青年は少女からゆっくりと身を遠ざけて、地獄と天国を内包した布団から脱出した。
 何故か残念そうに身を震わせ、布団を掻き抱く少女に、青年は改めて目を向ける。
 少女は、昨夜お世話になった屋台の店主だった。

「何で、一緒に寝てるんですか」
「覚えてない? 昨日屋台で会ったでしょ」
「会いましたけど、説明になっていない」

 布団から顔だけ出している少女は考えるような素振を見せる。
 それから、少なくとも三十は数えられるほどの間が空いた。
 青年はただ少女の言葉を待ち、少女は説明の手順を考えたまま布団を楽しんでいる。
 とりあえず、寒かった。

「そうそう、昨日きみが屋台で寝ちゃったから、連れて来たのよ」
「短い説明に豪く時間が掛かりましたね」
「私ってば鳥だからねー。よし、充電完了!」

 ばさりと布団を勢い良く跳ね飛ばし、少女は立ち上がった。
 その背中には少女の言う通り、鳥のような翼が対となって生えている。
 それよりも目を引いたのは、帯もなく無防備な、引っ掛けただけの着物から覗く肌だった。
 青年は慌てて目を背けて、朝特有の自然現象を収める。
 もしかすると朝のせいだけではないかもしれないが、ここは割合しておくとしよう。

「何で、一緒に寝てるんですか」
「同じ質問だよね……あぁ、そっか。大丈夫、何もしてないよ」
「そうじゃなくて、こんな……信用できない男とさ」

 自分で信用できないと言うのも妙だが、青年は事実としてそれを口にした。
 少女はきょとんとしたまま暫し固まり、急に顔を綻ばせて微笑んだ。
 まるで、おかしな者でも見たような、からかうようなそれに、青年は唖然となる。

「だって、妖怪と知ってて何かしようとは、思えないでしょ?」
「……万が一ということもある」

 布団が一つしかなかったんだから、我慢してよねと少女は苦笑する。
 何かおかしなことを言った覚えはなかったが、少女は青年を笑い続けていた。



「朝食、和食で良いでしょ?」

 あれから暫くして、布団を片付けた少女は台所へ向っていた。
 その後姿を眺めながら、青年は呆然と肯定を返す。
 一晩聞き続けた歌声を聞きながら、青年は手持ち部沙汰となって、意味も無く自分の手を見つめる。
 手にはまだ、柔らかな感触が残っているような気がして、無言のまま握り締めてみた。
 何をしているのだろうかと、自問してやる。
 答えは、青年の中には無いようだった。

「……どうしたの?」
「――っ! い、いや、何でもない」

 思考に没頭していた為か、少女の顔が目の前に見えても、青年は一拍程呆然としていた。
 そして、後ろに倒れるようにして顔を背けながら、どうにか声だけは上げないようにする。
 熱の上がった頬を隠しながら、盗み見た少女の顔は何故か、残念そうだった。

「朝ごはん、食べていってよ」
「あ……うん、いただきます」

 出された卓袱台に食事が並べられる。
 二人分のそれを見て、断るのも失礼と、青年はそれをありがたく頂戴することにした。
 実を言えば、今にも腹部から音が鳴りそうでもあったのである。

「……美味い」
「あは、おかわりもしてね」

 自然に零れた言葉に、少女は嬉しそうに答える。
 不思議と頬に熱が上がるのを感じながら、青年は誤魔化すように箸を動かした。
 大きな瞳が、対面に揺れている。嬉しそうな少女の笑顔も揺れている。

「……何か?」
「んー?」

 箸を止めて、先から向いている彼女の瞳から目を逸らす。
 耐え切れなくなったかのように少女は顔を綻ばせ、眉を八の字にして笑みを深める。

「ちょっと嬉しいだけだよ」
「嬉しい?」
「あ……うん、誰かと朝ごはん食べるの久しぶりでさ」

 懐かしむように瞳を閉じて、少女は言う。
 そして、ようやく彼女自身も箸を動かし始めた。
 その姿を見るに、先まではずっと、食事を止めて青年を見つめていたということになる。
 それがどうにも気恥ずかしくなり、顔を伏せるようにして、青年も食事を再開した。
 ただ、大した会話もなかったというのに、居心地が悪いとは思えなかった。
 それはきっと、少女の笑顔があまりにも嬉しそうだったからなのかも知れない。



「それじゃあ、世話になりました」
「……うん」

 食事も終わって、一時を共に過ごして、青年は心から感謝を示した。
 頭を下げると、少女は慌てたように手を振って青年を止める。
 そして、笑顔で見送ってくれた。
 故に、青年も笑い返して、背を向ける。
 今度はちゃんとした客として、あの屋台に行こうと思った。
 もしかしたら、青年は少女のことを気に入っているのかもしれない。
 それは、先の笑顔を思い出すに当って、確信へと変わった。
 朝日も昇った、魔法の森ほど暗くはない道だ、妖怪に襲われることもないだろう。


「待って!」

 晴れやかな空を見上げ、少女のことを思い返していた瞬間だった。
 もはや見えなくなった少女の家の方角から、その声はした。
 背に軽いものが当るような感覚を覚えて振り返ると、予想通りそこには少女が居た。
 腰に抱きつく子供のように額を押し付けて、腕を回している。
 泣いているようにも見えた。

「な、何だ?」
「……森の外まで」
「いや、日も昇ってるし……」
「お願い……送らせて」

 顔を伏せたまま、少女は言う。
 昨夜聞いた昔話を、青年は思い出していた。
 そこまで思案しながら、青年は頭を振ってそれを散らした。
 邪推するようなことではない。そう、思ったのだ。
 震える少女の頭に手を置いて、恐らくは年上の彼女を軽く撫でる。

「それじゃあ、森の外まで」
「……うん」

 一つ頷いて、少女は青年から離れる。
 その目は、呆然と青年の手を見つめていた。
 もしかしたら、撫でられるのは嫌いだったのかもしれないと、青年は思う。
 それでも、そうしなければいけない気がしたのだ。
 根拠の無いそれに疑問を抱きつつも、青年は歩き出す。
 手も繋がぬ道中、言葉さえも交わさないまま時は過ぎていく。

「外だ」
「……そうだね」

 振り返った先には、少女が居る。
 伏せた顔は、表情を読み取ることが出来ない。

「本当に、ありがとう」
「ううん、久しぶりに楽しかったよ」

 それでね、と少女は続けながら、口を閉ざした。
 青年は急ぐこともなく、言葉の続きを待つ。
 もしよかったら、そこまで言って、少女は笑顔を崩して俯いてしまった。

「今度は、ちゃんと客として行くから」
「……妖怪の、屋台なんだよ」
「恩人だし」
「妖怪……」

 食い下がるように、少女は続ける。
 青年は呆れたように息を吐いて、一つの理由を述べた。

「歌が、好きなんだよ」
「え?」
「なんかうるさいのに落ち着くっていうか……な」
「――あ」

 言って、青年は後悔した。
 目の前で、少女は泣いていたのだ。
 うるさいと言ったことが気に障ったのか、思いながらも、青年は何もすることが出来なかった。
 ぽろぽろと、少女の目からは雫が絶えず溢れていく。
 どうすることも出来ず、青年は少女の頭に手を置いて、撫でることしかできない。

「……なんで」
「え?」

 涙声の問いに答える前に、少女の手が青年の手に添えられる。
 そして、強く握られたそれを引かれる形で、無防備だった青年は前のめりとなった。
 瞬間、両頬に少女の手が添えられる。柔らかくて、繊細な指が更に前へと青年の顔を進めていく。
 目の前には、爪先立ちになって顔を上げた少女の姿があった。
 最初は、軽く柔らかな感触だった。
 次の瞬間には差し込まれた舌の温もりを感じさせられた。
 味は特には感じなかったが、なんとなく甘いように思える。
 時にして四拍ほど、青年は少女と唇を交わしていた。
 呆然とする意識の中、目の前で頬を朱に染めた少女が背を向ける。

――名前は?

 「何故」でもなく、「どうして」でもなく、青年はそう尋ねた。
 ミスティア。短く告げるようにして少女は言うと、逃げるように森へと消えていった。


「……ミスティア」

 まだ濡れた唇の感触に熱が上がるのを感じながら、呆然と森を見つめ続けて。
 青年はミスティアと名乗った少女に、昨夜の時点で一目惚れしていたことに気がついた。


 物語が、もう一度始まる。







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