“さいかいのうた。”作:眼帯兎二度と朝には出会えない。 そんな言葉を囁かれたら信じてしまいそうなほど、暗い夜だった。 鬱蒼と生茂った森の木々は空を覆い隠し、月の消えた道はもう何も見えない。 しかし、青年は足元も見ないまま、道を進み続けていた。 目印になるようなものは何も見えない。それでも、聞こえていたのだ。 「歌が聞こえる……」 何も見えない夜、もう歌しか聞こえなかったのだから。 青年はただ、歌の元へと歩き続けている。 半刻も歩き続けていたような気がしたが、月も星も無くては確認しようが無い。 それでも、目の前にはようやく光が見えた。 「……あ」 赤い提灯の揺れる屋台がそこにはあった。 歌い手もそこに居た。青年に気付く様子もなく、歌い続けている。 何故だろうか、その歌は心の中に響くと同時に、何かを思い出しそうになる。 詩は幼稚なもので、底抜けに陽気なそれに、青年は地に根を張るように動けなくなった。 結局、歌が終わるまで青年は微動すらすることはなかった。 「あれ、お客さん? ごめんね、今日はもう……」 向けられた笑顔に、呪縛を解かれたように意識を浮上させる。 見開いた瞳の中、歌い手は驚いたような顔をしていた。 暫しの間、二人の間を沈黙が包み込む。 歌い手は慌てたように笑顔を取り戻すと、未だにぼんやりとしている青年へと向き直った。 「い、いらっしゃい。やっぱもう少し営業することにしたよ!」 「いや、道に迷ったら歌が聞こえてきて……」 「鳥目だね。ほら、八目鰻って鳥目に効くからさ」 座ってくれと、歌い手は屋台の席を執拗に勧める。 普段なら快く、その席に座ったのだが、生憎青年は持ち合わせが乏しい。 歌い手には悪いと思ったが、席に座ることは出来なかった。 「情けないことに、持ち合わせが無いんだ」 「……そっか」 「ごめんな、店仕舞いだったんだろ?」 気落ちしたような表情に、青年も顔を歪める。 何故だろうか、彼女にそんな顔をさせたことを、心の奥で責められているような気がした。 それでも、長居する理由は無かった。店仕舞いの邪魔をする気もなく、青年は来た道を戻ろうとする。 できるなら、もう少し彼女の歌と、笑顔を見ていたかったような気がした。 「待って!」 突然の声は、信じられないほど大きなものだった。 振向けば、屋台から乗り出した歌い手が、予想以上に大きくなった声に顔を赤く染めている。 何かを期待していなかったといえば嘘になっただろう。故に、足を止めたのだから。 青年は無言のまま、朱を深くする彼女を見つめたまま、続く言葉を待ち続けていた。 「あの、迷ったら危ないし……」 「そうだな、迷ったら危ないだろう」 「その、よかったら朝までここに居たら……安全かなって」 「……いいのか?」 聞き返すと、歌い手は赤い光に照らされながら、僅かに首を縦に振った。 それを断るような理由は探すまでもなく、欠片さえ見当たらない。 「それじゃあ、厄介になるよ」 「はい、どうぞ」 朱の残る顔が綻び、笑顔に戻ると、青年は頬に熱が篭るのを感じた。 先は解かれたと思った呪縛は、新たな呪縛に塗りつぶされただけなのだと気付く。 赤くなったであろう顔を提灯のせいにする為に、青年は足早に屋台へと進む。 歌い手は再び、笑顔と共に歌を口ずさんでいる。 「……何か?」 「ううん、なんでもない」 聞き入っているうちに、歌い手の視線がずっと向いていることに気付いて、思わず目を逸らす。 彼女は気にした様子も無く、何故か楽しそうに青年を見つめ続けていた。 青年も手持ち無沙汰に耐えられず彼女を盗み見るが、その度に目が合い気恥ずかしくなる。 何度目かのそれに顔を伏せたとき、青年の目の前に一つ、グラスが置かれた。 「いや、俺……」 「奢りだよ、飲まずに朝までなんてもたないでしょ」 私には歌があるからいいけどと、冗談交じりに言って、グラスを押し付けるように勧める。 その笑顔に圧されるように、青年は杯を受け取り、彼女のものと縁を打ち鳴らす。 変わらず覗き込むような視線を感じる中、確かに飲まなければやっていられなかった。 「夜は長いね、ちょっと昔話でもしようか」 「……あ、あぁ」 言うと同時、穏やかに微笑む彼女は、歌うように語らい出した。 酒と歌だけでは味気無く、その提案はありがたかったので、青年も遮ることはない。 夜の屋台に、昔々の物語が響いていく。 昔々、とある所に愚かな妖怪がおりました。 獣を落とす罠に、翼を持ちながらも落ちた彼女は、死を待つだけの身でした。 語り始めは失笑のような、自嘲気味の語らい口で。 そこに、一人の人間の男がやってきました。 人間は妖怪を退治するもの。男も同じく、そうする筈でした。 しかし。その言葉は希望に満ちたように、高々と彼女は歌った。 男は妖怪を背負い、家に連れ帰ると、折れた翼に布を巻き、傷に薬を塗ります。 妖怪は男に、恋をしました。 恥ずかしそうに、ありきたりだねと、語り手自ら茶々を入れる。 青年は黙って、話の続きを促がした。 しかし、妖怪は人間と恋仲になれるとなどは思っていませんでした。 夜が明けるまえに、妖怪は男の元から去ろうとします。 そこへ、男の声が妖怪のことを止めました、男は前から妖怪のことを知っていたと。 愛していると、言いました。 懐かしむように、彼女は瞳を閉じて歌った。 互いに想い、愛した二人は夫婦となりました。 それでも、妖怪と人間がくっついて、良いことがあるわけがありません。 誓いを交わした次の日、愛を深める間もないまま。 男は、別の妖怪に襲われ、死にました。 顔を伏せて語る彼女の表情は影となり、青年には見えなかった。 この物語は、報われない。 それで終わりではありません。 妖怪はあろうことか、青年の骸を守る為にと、貪ってしまったのです。 妖怪と人間が恋仲になってはいけない。肝に、命じよ。 歌が止まる。伏せた顔には微笑が戻り、どうだったかと、視線で尋ねているようだった。 本当に、この物語は、報われない。 「妖怪は、報われないな……」 「……妖怪が? 普通は人間の方が報われないと感じないかな」 「だってさ、男の骸を貪った妖怪は後悔した筈だ。守る為にといっても……ずっと」 言うと同時、彼女の顔が曇った。 確かに、変なことを言ったかもしれないと、青年は口を噤む。 「……この話にはね、続きがあるんだ」 人に語るのは初めてだけどね。そう言いながら、彼女は薄く笑った。 「この後妖怪はね、死んだ青年に会いに行くんだ、現実離れしてるけどね」 「……そうか」 「そこで、青年に謝るんだよ、泣きながら」 「……それだけなのか?」 「妖怪はね、歌を謳ったの……鎮魂歌をね。それで男は成仏して、この話は終わり」 くだらないでしょう。そう言って、彼女はわざとらしく笑った。 恐らくは、普通の人と思考をあわせる為だったのかも知れないが。 青年には、誰よりもこの物語を本当に深く思っているように見えた。 「それじゃあ、男は幸せだったろうな」 「……なんで? 愛する者に食べられちゃったんだよ?」 「きっと、何より妖怪が後悔することを未練に思ったはずだ。男ってのはそういうものだよ」 そう、物語の男が成仏したのは、恐らくそういうことだからだろう。 思ったとおりに口にすると、彼女は驚いたように、目を丸くした。 「そんなこと言ったのは、お客さんが初めてだよ」 「……俺だったらそう思っただろう、そんなところだ」 今更になって恥ずかしくなって、青年は顔を背けながらに言う。 すると、彼女は楽しそうに、再び歌を歌い始めた。 その姿を、青年は暫く無言のまま、見つめている。 「それってさ、あんたのことなのか?」 「……なんでかな?」 突然の問いに、彼女は微笑を崩さず、聞き返した。 何故かと聞かれても、青年は何となくそう思ったからとしか言いようがない。 それでも、あえて一言挙げるなら、二つの理由があった。 「なんだか感情が篭ってたし、店主さん妖怪だろ」 「見えてたんだ、普通は誰も気づかないんだけどな……」 「そりゃあ、二人だけで向い合ってたら気付くよ。目は良い方だしな」 一瞬だけ驚いたような表情を見せた後、彼女は薄く笑って、肯定してみせた。 昔話だよと、自嘲気味に歌う瞳は、僅かに潤んでいるように見える。 「そうだね……お客さん、考え方が少し、物語の男に似てるかもしれない」 一変して、彼女は冗談めかして微笑む。 それはきっと、雰囲気を変えるものだったのだろう。 いやらしく笑って見せて、青年が目を逸らすと、くすくすと忍び笑いを溢す。 「……あれ?」 耐え切れず、青年が夜空を見上げると、消えた筈の歪な月が輝いていた。 月に照らされた道なら、迷わず帰ることもできただろう。それでも、青年は気付かないふりをする。 朝までこの歌を聞いていられることを、気付かぬ内に望んでいたのだ。 夜は長く、いつまでも続くように思えるだろう。 それは、願ってもないことだった。 暗い夜、静寂に包まれた森はもう、彼女の歌しか聞こえない。 次へ→ ←TOP |