“はじまりのうた。”作:眼帯兎紅い夕焼けも燃え尽きて、端から黒く沈んでいく。 夜の始まりを映す空の下、人影が一つ、夜雀の屋台へ訪れた。 「……こほん」 「いらっしゃい……閻魔さん?」 「お久しぶりですね」 赤い光を揺らす提灯に照らされて、威厳に溢れた姿が現れる。 白と黒を基にした固い印象を与える征服に、重そうな飾りをつけた帽子。 そして、手にした錫は死者を裁く者の証。この幻想郷に現れる閻魔は一人しか居ない。 誰もが身を隠そうとする彼女を目にしても、ミスティアに驚きの色は薄かった。 そのことから、映姫がこの屋台に何度か足を運んでいることが分かるだろう。 ミスティアは慣れた手付きで、些か薄すぎるのではないかと言うほどの割合で割った酒を出す。 「休暇中みたいだけど……精が出るね」 「……これが、私に積める善行なのです」 言いながらも、映姫の顔には疲れが浮び出ており、どこか陰があるように思えた。 恐らくは、訪問先の相手が少し、癖のある人物だったのだろう。 「今日は、九代目の阿礼乙女に会って来ました」 「お説教に?」 「えぇ、転生について、少し」 そこで、映姫の口から溜息が一つ、大きな音を立てて零れ落ちた。 「そこに、八雲紫が居合わせておりまして。彼女ときたら、自分に口が向かないと知ると、すぐに茶々を入れて――」 「た、大変だったのね……」 「それは、もう……」 八雲紫、その名を聞くや否や、ミスティアは映姫の徒労を解し、同情と苦笑を送った。 広く知られる迷惑妖怪、それと相対したとなれば、想像された苦労の二段上は、軽く飛び越えるだろう。 気落ちする映姫に、ミスティアの長い屋台生活で培われた勘が警鐘を鳴らした。 話を変えるべきだ。そう思うと同時、ミスティアは小さな鳥頭をくるくると回した。 「あー、阿求といえば、妖怪図本みたいなものが発表されたみたいだね。私なんか、なるべく恐ろしげに書いてもらったんだけどさ」 「求聞史記ですね。妖怪退治の為の書が、妖怪にも閲覧できるとは……時代の移り変わりを思わせます」 手元の薄い酒を舐めるように飲み、映姫は空を仰ぐように顔を上げた。 何処を見ているのか、隣ではなく、対面に立つミスティアには計り知れない。 恐らくは、隣の立っていたとしても、映姫の見るものは見えなかったであろう。 「きっと、意外そうな顔をしているのでしょうね」 「うん、嘆かわしいとでも、言うと思ってたよ」 空を仰いだまま、薄く笑った映姫はやっぱりと、自嘲気味に呟いた。 頬に微かな朱が見えることから、あの薄い酒でも丁度良く酔えているようである。 「私も期待してしまうのですよ、妖怪と人間の、争いながらも新しい関係に……」 らしくはないと思いますが。そんなことを呟きながら、映姫は手元の酒を一気に呷った。 舐めるようだった今までのそれとは違った為、ミスティアは意外そうに見つめている。 それは、先の言葉よりも、ずっと意外に見えたのだ。 「そう、思い出しました。私は今日罪を犯しに来たのです」 「……罪、ですか?」 「ええ、それでも、休暇ですしね、償いはこの先いくらでもいたしましょう」 「意外だね。閻魔さんには、罪なんてないと思ってたけど――」 「人を裁くというのは罪ですよ、ミスティアさん。生きていくのもね、私にも罪は存在します」 「……うん」 それは軽率だったのか、映姫はただ、悲しそうに微笑んだだけだった。 失言だったのかもしれないと思いながらも、ミスティアはただ、口を噤むしかない。 しかし、映姫は気にした様子も無く、話を進めていく。 「さて、本題ですが」 またも、映姫は空を仰いで、冷めた声を漏らした。 一時の静寂が辺りを包む、提灯の揺れる音が、やけに大きく聞こえるほどだった。 目の前で瞳を閉じた映姫は、意を決したように口を開く。 第一声は、これは独り言です、だった。 「とある人間の魂が、五日ほど前に人間の赤子として産まれたようです」 「――え?」 ミスティアの溢した声以外に、音は消えていた。 無音の夜、空を仰ぐ映姫の微笑だけが、はっきりと見える。 彼女の言う魂とは恐らく、ミスティアの待ち続けたそれに違いないのだろう。 「閻魔さん、あの……良かったんですか?」 「今日は酔いが回り過ぎたようです。やはり、酒が過ぎるのは罪ですね、独り言が多くていけない」 いつもの真面目な顔からは想像できないような、無邪気な笑顔。 悪戯を見つかって尚微笑むようなそれは、とても魅力的な、彼女本来の笑みだったのかもしれない。 「……ありがとう」 微かに水気を帯びた瞳を向けて、ミスティアは言う。 映姫は聞こえないふりをしながらも、確かに、笑みを深くして応えた。 「お代わりは?」 「いいです。私にとって、過ぎたる酒の量はとても低い位置に座しているのですから」 「簡単に言うと、下戸よね」 「そうとも、言いますが……やはり頂きましょう、今日は罪を犯しに来たのですから」 景気の良い声と同時に、ミスティアはうんと薄くした酒を差し出した。 これほどに薄いものならば、疲れを解す、良い薬となるだろう。 映姫はまたちびちびと、舐めるように酒を楽しみ始めていた。 「しかし、あれを見るに、私は好かれて居ないようですね」 「そりゃあ、誰だってお説教が好きな訳がないよ」 俯き、影を落とす映姫に苦笑いを向けて、ミスティアは一つ間を置いた。 二つ数えられるほどの間は、言葉に詰まった訳ではない。 終始笑顔のまま、羞恥を克服したミスティアは、はっきりと聞こえるように言うのだ。 「それでも、あの時のお説教は、何よりもありがたかった」 「……あ」 「閻魔さんは、他人の為に、休暇すら削って正そうとしてくれる」 「それは、私のするべき事だからです……」 「それでも、私は貴方に助けられたよ」 ミスティアは笑いながら、鰻の焼き加減を気にするふりをして背を向けた。 それが、背後に聞こえた目を擦る音を気にしてのことだったのか。 恐らくは、ただ恥ずかしかっただけなのだと、ミスティアは思うことにした。 夜が更けて、赤提灯は揺れ続ける。 映姫は当然、過ぎた酒に悩まされることになるのだが。 それはまた、別の話である。 次へ→ ←TOP |