ただ、そこにある幸せ No.01-05
作:眼帯兎
■ No.01
「――おかあさん!」
守矢神社の朝は早い。
故に、洩矢の巫女は山から見渡せる幻想郷を日の光が染め上げるまでには起床している。
日々の仕事の始まりは早朝の祈祷に、供える朝餉の準備。
祀る神々に粗相が無いように、質素だが味の良い食事をこさえる。
ただ、昨晩は博麗神社での酒宴があったためか、月の沈むのを久しく目にした巫女はまだ眠い。
だから、それは仕方のないことだったのだ。
「……おかあさん?」
口にしたのは守矢神社の神、八坂。
その隣には、帽子の飾りと共にきょとんと目を瞬かせている蛙神。
二人は卓を囲みながら、呆けている巫女を見上げていた。
その様子に、巫女が火を噴く勢いで頬に朱色を混ぜていく。
「あ……あの、ごめんなひゃい!」
慌てたせいか、次いで出た言葉は呂律が回らず、巫女の頬はますます赤くなっていく。
その様子に、ようやく二人の神様はにやりと唇を歪めた。
「あらあら早苗、まだ母が恋しい年頃だったかい」
最初に、八坂の神が皮肉をこぼす。
巫女は遂に顔を伏せて、食卓にある蛙の箸置きを意味もなく凝視した。
細く開いた障子から吹き込む朝の風も、巫女の頬を覚ましてはくれない。
「ふふふ、まだまだ可愛らしい子だね、早苗は」
続いて、蛙神が微笑みながら巫女の頬を指先で押す。
どちらが子供か分からない光景の中、巫女の顔は破裂するのではないかというほどに真っ赤に染まる。
そろそろ潮時か、と二人の神様は同時に言葉を投げかけようとして。
見計らったように、巫女は顔を上げた。
「いいんです! お二人は私の育ての親なんですから! おかあさんでいいんです!」
相変らず顔は真っ赤。
何かを伝えようとしているのか、前に出した指先はくるくると円を描くばかりである。
瞳は虚ろで目を回しているかのように、もはや自分が何を言っているかも分からないのだろう。
そして、意を決したように、巫女はお櫃にしゃもじを突き入れると、茶碗に米を盛り付けて配膳を済ませる。
「どうぞ、おかあさん!」
混乱した巫女は自棄になって、蛙神に茶碗をそっと差し出す。
自棄になっても礼節を欠かないのは素晴らしかった。
「折角の朝餉が冷めてしまいます。ほら、食べますよ! いただきます!」
言って、手を合わせて促す巫女に、八坂の神も呆然と手を合わせた。
そして、巫女は二人の神が朝餉に箸を付けてから、僅かに顔を伏せながら箸を進める。
主人より先に箸に手をつけないのは、現代人にしては素晴らしい。流石は巫女である。
こうして巫女は顔を伏せたまま、普段と変わらぬ日常が始まった。
因みに、この後巫女は自分の言動について、大いに悶え転がることになるのだが。
ただ一人、蛙神がこっそりと泣いていたことに気づくことはなかった。
■ No.02
博麗さんは気ままな巫女である。
神事は少々、結界を守護するのが主な仕事で妖怪退治はそのついで。
ただし、滅多なことでは事件など起こらないから、博麗さんは大抵毎日お茶を口にし寝言をこぼす。
群青色の空には、真っ白な太陽が偉そうに昇っていく。
今日は誰も来なかった。
博麗さんはぐうたらな巫女である。
それでも境内のお掃除は欠かさないが、休憩はまめに取る。
しかし、掃除程度なら半刻も待たずに終わってしまうから、結局博麗さんはぐうたらとお茶を飲む。
白い雲の向こう側、微かに黄金色の黄昏が見え始めた。
今日も誰も来なかった。
博麗さんは自由な巫女である。
妖怪は退治するけれど、人間の絶対の味方というわけでもない。
だから、里の人間は人間よりも結界を優先する博麗さんに信仰を寄せようとしない。
夕日の黄昏色が、真っ白な花を橙色に染めていく。
やっぱり誰も来なかった。
博麗さんは無重力の巫女である。
神社に誰も来なくても平気な顔でお茶を飲むし、妖怪でも人間でも本質的には平等な心を持っている。
つまり、どんな相手にも同じような価値観しか持たず、迷惑なら誰でも懲らしめた。
夕焼けを背にすれば、夜の歩みが聞こえてくる。
どうにも誰も来なかった。
「……霊夢?」
「――あ」
掃除を終えて、縁側に寝転んで、変わらぬ動作で睡魔を受け入れる。
普段と変わらぬ動作の途中、霊夢は呼びかける声に気が付いた。
金糸のような、太陽の匂いがする髪が頬をくすぐる。
鼻先がぶつかるほど近く、覗き込むようにして、魔理沙の顔が見つめていた。
「どうしたの?」
「いや、暫く寄ってなかったからな、覗きに来たんだが」
「……そう」
「誰も、来てなかったのか?」
霊夢の目の前で、魔理沙の眉根が寄せられる。
訝しげに、何とも困ったような表情を浮かべながら、覗き込んでくる。
どうかしたんだろうか、と霊夢もまた、眉根を寄せた。
「ええ、五日くらい誰も来てないわね。珍しいこともあるもんだわ」
「五日か……」
そう、普段なら三日もすれば誰かが神社にやってきた。
それは妖怪であり、人間であり、時には亡霊でありと様々な類の者が尋ねて来る。
霊夢は無重力だから、誰が来ても同じような対応しかしなかった。
厄介ごとを持ち込む輩であっても、傍若無人の王であっても、霊夢は同じ顔で同じ持て成しをする。
自分と同じお茶を淹れて、同じお茶請けを振る舞い、帰るときには同じような表情で送り出す。
「寂しかったか」
不意に、目の前で呟かれて、霊夢はきょとんと目を丸くした。
相変らず、魔理沙の顔は困ったように歪んでいる。
ふにゃふにゃ、ぐにゃぐにゃ、と困ったことに歪んで見える。
「皆予定が合わないとは思わなかったんだよ」
「別に――」
ぎゅ、と魔理沙の胸の中に引き倒されて、抱きしめられてしまった。
霊夢は抱きとめられたまま、いつもの顔で魔理沙を迎え入れている。
「だから、泣くなって」
そう、普段なら三日もすれば誰かが神社にやってきた。
それは妖怪であり、人間であり、時には亡霊でありと様々な類の者が尋ねて来る。
霊夢は無重力だから、誰が来ても同じような対応しかしなかった。
厄介ごとを持ち込む輩であっても、傍若無人の王であっても、霊夢は嬉しそうな顔で最高の持て成しをする。
自分のお気に入りのお茶を淹れて、美味しいお茶請けを振る舞い、帰るときには寂しそうな表情で送り出す。
博麗さんは少しだけ、寂しがり屋の巫女である。
■ No.03
あたいは一人で湖を眺めている。
どのくらいの時間が経ったのか、あたいには解らない。
最初から計っていないのだから当然だろう。
何もする気が起きなくて、あたいは冷たい身体を湖に浮かべながら、流転する景色を眺め続けている。
湖は澄み渡り天空の群青色でその身を染め上げて、雲一つない空からは春の陽射しが穏やかに降りそそいでいた。
この陽気の中、妖精達は賑やかに活気づいて、そこらじゅうを気楽に飛び回っているのだろう。
しかし、この寒い湖の上には誰一人として姿を見せない。
妖精というものは、基本的に寒いところが苦手なのだ。
だから、それは当然とも言える。
冷気を振り撒くあたいの住処には、誰も訪れたりはしない。
空を仰ぐあたいの隣を、一匹の蛙が泳いでいく。
凍らせる気も、今は起きない。
あれほど楽しく思えた行為も、もはや価値を感じられなくなっている。
一人で行う悪戯なんて、初めから楽しいなどと思っていなかった。
それでも、他より頭が悪いと馬鹿にされているあたいは、自分の嘘に簡単に引っかかってくれた。
だけど、それももう終わりだ。
そう、予兆も予感もなく思い出したのだ。自分の周りには、誰も居ない。
いつだったろうか、説教臭い女に言われたことを思い出す。
半分も理解できない回りくどい言い方ではあったが、ただ一つ覚えていることがある。
それは、あたいが歪な存在であるということ。
他と違うということ。
少しだけ捻くれた生まれ方をしただけで、あたいは一人になった。
永い時が、一瞬で過ぎたような感覚が沸いてくる。
見上げ続けていた空は、その色を深く、終わりへと近づけていた。
沈みかけた太陽が水面に映り、双子が顔をあわせるように辺りを照らしていく。
いつも一人で見ていた光が、より一層と一人を感じさせた。
その橙色をした二つの光が目に焼きついて、瞳から冷たい水が溢れ落ちる。
それは頬を通り、水面に着いたときには結晶となって、温かな湖の中に溶けていく。
止め処なく溢れた水は、どんどん湖面に吸い込まれて消えていった。
冷たい水は止まらない。
双子の光が互いを食い潰して、一つの円に姿を変えても止まることはない。
あまりにも流れ続けるものだから、この湖の全てがあたいの瞳から溢れた水のように思えた。
不意に、生まれ変われば、この冷たい身体もなくなるのではないかと思いついた。
浮かび上がった思考に何も感じぬまま、あたいはゆっくりと湖の中へと身を沈めていく。
暖かな光が、水面のフィルターを通して滲んでいった。
息苦しさは感じない。恐怖も悲しみもない。
このまま沈んで行けばあたいという妖精は死んで、また新しい妖精として生まれてくる。
一人ではない、他と同じ暖かな妖精として。
意識が、手放される。
――瞬間、冷たい身体が何かによって引き上げられた。
「チルノちゃん、何してるの?」
眼前には大妖精が立っていた。
誰も来ないはずの湖で、大妖精はお姉さんぶった口調で腰に手をやり、微笑み続けている。
あたいよりも頭一つ分高いところから、夕日よりも優しい笑顔が降ってくる。
「せっかく暖かくなったから遊びに行こうと思ったのに、水の中に居たら見つからないよ」
むくれながら、“やっと見つけた”とまた笑う。
あたいは呆然と、その笑顔を見つめていた。
彼女の微笑は深まるばかりで、あたいを真っ直ぐに見つめていて、握られた手はどうしようもなく温かくて。
暫く続いた沈黙に、温かい水が一適、零れ落ちる音が響いた。
もしかしたらそれは、涙だったのかもしれない。
■ No.04
水面には空が溶け込んだような青と、波に揺れる雲の虚像。
穏やかな風は湖の冷気を纏い、春先とは思えない冷たさを畔へと運ぶ。
何も変わらない姿で湖はそこにあり、何も変わらない姿で空もそこにある。
しかし、そこには在り得ない不思議が一つ、浮かんでいた。
物置小屋ほどの大きさの黒い球体が一つ、空を映す水鏡の上に影を落としながら漂っている。
水を汲みに来た人間が一人、ぎょっと目を丸めて引き返していく。
喉を潤していた何処かの門番が、興味も持たずに視線を逸らした。
鳥達は尽くそれを避けるように飛んだし、獣はそもそも湖の上を歩けない。
だから、黒い球体の周りには誰も居なかった。
人間はとある書物からその存在を知っていたから、近づくことはなかった。
妖怪はその中心から妖気を感じたものの、関わるのが面倒だったから捨て置いた。
鳥達は夜目が利かないから闇を避け、獣は湖を歩けたとしても近づかなかっただろう。
黒い球体の中には、一匹の妖怪が居る。
白昼の元、その姿は目立ち過ぎるから、誰もそれに近づこうとは思わない。
だから、黒い球体の周りには誰も居なかった。
無知な妖精を、一人除いて。
「なによあんた、ここはあたいの縄張りよ!」
右手を突き出して人差し指をピンと伸ばす。
親指は人差し指から直角に、やや胸を張り、左手を後方に引いて相手に対して自分を斜めに置く。
凄く格好良いと、言葉と共にチルノは心の内で密かに自賛していた。
そのやや後方では、背の高い妖精が一人、恥かしそうに額に手を置いている。
黒い球体は黙したまま、浮遊を続けていた。
「私は……なにかな?」
「知らないわ、なんなの?」
やがて、黒い球体は女の声で、質問を返した。
それに、チルノは何も考えずに質問を返す。
大妖精は一人、何故か苦い笑いを貼り付けている。
「……私は彷徨ってるの」
黒い球体は暫く黙っていたが、結局話をすり替えて答えた。
チルノは気づくこともなく、適当に相槌をうっている。
大妖精の笑顔は、何故か苦しいものになるばかりだ。
「一人で?」
「一人で」
チルノが問う。
黒い球体が返す。
「ずっと?」
「ずっと」
チルノが問う。
黒い球体が返す。
「昼間は皆どこかに行っちゃうし、この中じゃ何も見えないから」
「……ふーん」
興味のないような返事を残して、チルノは密かに眉根を寄せた。
見れば、黒い球体の周りには何も居ない。
人間は異変を恐れて近づかなかった。
動物は闇に飛び込むような愚かしい行為をしなかった。
妖怪は奇異なその姿を見ても何も思わなかった。
誰もが、闇の中でこの存在を見つけられなかった。
だから、黒い球体の、周りには誰も居ないのだ。
「何で、変な格好で浮かんでるのよ」
腕を闇の中に突き入れてみても、手首から先は闇に染まって見つけられない。
「眩しいのが嫌いで、太陽の光を遮っているの」
「でも、それじゃ顔が見れないわ。人と話すときはれいぎがいるのよ」
無茶なことを言っていると、チルノは何となく分かった。
それでも、気に入らなかったから、無茶でも何でも言ってやらないといけない気がしたのだ。
「目を瞑ってていい?」
「……うん」
答えはあっさりと返ってきた。
目の前で闇が薄れていく。段々と人形の輪郭が浮かび上がってくる。
木陰のような明るさにまで薄まって、ようやく金糸のような髪が見つけられた。
白い肌は透き通っていて、日にあたったら焼けてしまいそうなほどに儚い。
闇の妖怪、そう表現するのが相応しい少女だった。
「あんた、ずっと一人だったんでしょ?」
「そうだよ」
当たり前のように答える姿が、チルノはどうにも気に入らない。
きっとその白い頬は、何度も冷たい雫が伝っただろうに。
自分のことのように、チルノはそれが分かる。
自分と似通っているから、チルノはそれが分かってしまう。
誰もが遠のいていくのは、誰だって悲しい筈なのだ。
「だったらあんた、あたいの子分にしてあげるわ!」
「子分?」
「チルノちゃん……もう」
そして、自分の後ろには大妖精が居る。
どこまでも似通っているのに、それでは不公平だと、チルノは思った。
だから――、
「特別に……友達でもいいわよ」
初めて、そんな言葉を唇がこぼした。
背けた視線の端に、大妖精の笑みが見える。
「へー、そーなのかー」
瞳は閉じたまま、薄く笑って少女は薄めていた闇を元に戻した。
チルノは自分のことのように、それが分かってしまう。
だから、気づかないふりをして、
「それじゃあ、友達がいいな」
その言葉に、見えていないだろうけど頷いて見せたのだ。
■ No.05
木々の隙間から漏れる日差しが線となって差し込む、緑の地。
生命力に溢れた葉の匂いが降りてくるその場所に、似つかわしくないものがあった。
まるで、幻想郷中の日陰を集めて握り固めたかのような、黒い暗い球体。
大きさは六人の人間が手をつなぎ、輪になった程度。
決して小さくはない、存在感のある物体だった。
そして、
「出て行け、余所者!」
ものいわぬそれに、威勢良く鳴き声を上げる忠犬。
白い体毛に覆われた、下っ端の更に下の白狼天狗。
排他的な妖怪の山の中、哨戒を担当するのがこの犬の役割である。
橙はこの白狼天狗が、余り好きではない。
「ねえねえお犬さん、どうしてあなたのお口は大きいのかしら」
「誰だ!」
「弱い者を一方的に弄って、楽しそうに嬉しそうに吠える為かしら」
訂正、大嫌いだった。
威勢良く吠えた天狗の顔が引き攣る。
やがてそれは忌々しそうに弾幕を放とうとして、手を下げた。
「橙か」
「あら、有名なのね」
「勘違いするな! 有名なのは八雲のことだ!」
「そう、藍様や紫様を天狗は敵に回したくない」
だから、その式の式である橙に手を出すことに躊躇してしまう。
傲慢で、狡猾で、更に下っ端の天狗ともなれば威厳と誇りが足りない。
「でも良いのよ? 多分、式神じゃない私でもあなたには負けないから」
言って、橙は符を三つ取り出す。
相手に動きはない。
躊躇は長く、まるで負け犬のように低く唸りを上げつつ、こちらを遠巻きに睨みつけてくる。
「――くそっ!」
そして三つ間を置いて、天狗は空を舞い逃げていった。
滑稽なその姿に、聞こえているかも分からないが橙は小さくこぼす。
「犬走の部下も、だらしない奴ばっかりねえ」
恐らくは、今も山の中を監視している白狼天狗の親玉に、その笑みは届いただろう。
「さて、そこのあなた……あなたでいいのかしら」
「……誰?」
「妖怪なの? 姿は見えないけど、大丈夫?」
黒い球体に一歩近づき、橙は恐々と指を伸ばす。
声は女の子のものだった。
空で時折見かけた黒い球体がそういったものだったことに、橙は少なからず驚きを見せる。
その隙に、伸ばしていた手を白い指先に掴まれた。
「ねえ、さっきから攻撃してくるのはあなた?」
暗い暗い闇の中に誘い込まれる。
手を引かれながら、橙は誘われるままに身を寄せた。
前も後ろも分からない黒い球体の中で、女の子の声が尋ねてくる。
「違うわ、天狗はもう逃げていった。ここは妖怪の山だもの、他所の妖怪が入ったら危ないのよ」
「へーそうなのか」
「あなた、自分から来たんじゃないの?」
ようやく手が放されて、目の前には微かな妖気とぼんやりとした人型の輪郭が見えた。
金糸のような髪、血の色をした瞳、透き通ってさえ見える白い肌。
夜目が利く妖獣だったから、僅かにそれが見てとれた。
「外もよく見えないから、自分が何処を飛んでるのかもわからないしー」
「あなたねえ……」
「太陽が沈めば平気なんだけど」
察するに、少女は太陽が、光が苦手なのだろう。
ともすれば、病的に白い肌とその身を包む闇にも納得がいく。
故に、日が昇っている内は闇を散らすわけにもいかないのだろう。
手を引いて案内するにも、橙自身闇に覆われては真っ直ぐ歩くことは難しい。
だからといって声で案内すれば、また厄介者を呼びつけることにもなりかねない。
妙案は浮かぶことなく、
「見えないままふらふら飛ぶには危険な所だしなあ」
「――大丈夫だよ」
思い悩む橙に、少女は言った。
何を根拠に断言したのか、橙は思考を止めて、耳をピンと立てる。
「邪魔なところに私が居たら、誰かが突いて、叩いて、外に出してくれるから」
息のかかりそうなほど近く、少女は恐らく笑っていた。
橙は、自分がどんな表情をしているのか分からない。
憤り眉根を寄せているのか、哀れみ瞳を細めているのか。
それでも、悦びや無表情であるわけがなかった。
闇の中、不意に伸ばした手はちゃんと少女を捕まえてくれたから。
「夜までここに居ればいいわ」
「私は歓迎されてないでしょう?」
「いいのよ、ちゃんと私が……」
守ってやるというのか、弱い自分が。
助けてやるというのか、役立たずの自分が。
思い出した自分の小ささに、橙は続く言葉を噤む。
ただ、握った手を更に強く握り締めて、どうにか言葉が伝われば良いと願った。
少女は笑っていた。
「ありがとう」
一言、少女が耳元に囁きをこぼす。
そして、強いのね、と続けて言った。
橙は瞳を丸くして、闇の中に適応しようと緩みきった瞳孔を引き締めて、息を呑む。
「別に、やり方が気に入らなかっただけだし……天狗を追い払ったのは私の力じゃないわ」
「そーなの?」
「私の主人が強いから、そのまた主人がもっと強いから。だから私も実力以上に恐れられる」
こんなにも弱いのに、八雲という名も持っていないのに、自分は主人の名を盾に暮らしている。
それが、望んだことではなくとも。
思いながら、橙はぎゅ、と歯を食いしばり、空いた左手を強く握り締めた。
そして、少女を掴んだ右手には、やさしい温もりが小さく握り返してくる。
「それでも、あなたは強いと思うの」
「だから、それは違う」
「違わないわ。あなたは……気高い」
少なくとも、何もできない私を追い払おうとしていた天狗よりは。
続いて聞こえた少女の言葉には、僅かにはにかむような気配が含まれていた。
「あなたは私を助けてくれた。だから、ありがとう」
その言葉に、橙はどうせ見えていないからと、目一杯に恥かしそうに笑って見せる。
深い闇の向こうで、少女もまた同じような表情をしているような気がした。
そして、一人の妖怪に嫌われた太陽が山の向こうに身を隠し、空を闇が塗りつぶしていく。
星々の光を避けるように、月の輪郭をなぞるように、夜は丁寧に黒を敷き詰めていく。
薄暗い森の中、少女は徐々に纏っていた闇を薄めて、今や橙の瞳にも確かにその姿は見えていた。
金色の髪を揺らして、病的に白い肌を笑みに歪めて、赤い瞳をこれでもかと細めている。
「この獣道を真っ直ぐ行けば、麓まで降りられるわ」
「ありがとう」
「うん、またね」
手を上げて、橙はふと、固まった少女の身体を覗き込んだ。
「ここは、来たら駄目なんでしょう?」
「そうね、だから会いに行くわ」
夜にね、と付け足して、目を丸めた少女に笑いかける。
「――うん」
その笑顔に、少女が“またね”と笑顔で答えた。
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